今年の「慰霊の日」に寄せて―今こそすべき沖縄戦継承の形

この記事の執筆者

そもそも何故沖縄戦の継承は必要なのだろうか? どのような目的意識を持って継承すれば良いのだろうか? この問いを考えるヒントとして、以下の言葉を紹介したい。

「今も、沖縄戦のことをすれば沖縄の人たちが何故平和について声を発し続けているのかって、その理由がわかるはずなんですね。(中略) 沖縄戦だけってよりかは、現在と結びついている所ってやっぱりあると思います。」

昨年私がインタビューした平和教育に取り組む沖縄の学生の声である。ただ歴史的事項や象徴的な日付を暗記するだけでもいけないし、歴史小説のように体験記を読むだけでも十分でない。「沖縄戦が現在とどのように繋がっているのか?」「ウチナーンチュの方々は沖縄戦の教訓をどのように活用し、現在の社会を見ているのか?」などに注目し、現在進行形の実践的課題として沖縄戦継承を捉える必要があるということである。そうであれば、沖縄で現在進行形で上がる声を入口に、今すべき沖縄戦継承の形を考える必要があるのではないだろうか。

玉城デニー県知事は平和宣言で、「戦争を体験した全ての方々の思いに応え、二度と悲劇を繰り返さないため、戦争体験や教訓を次の世代に正しく伝えていくことは、私たちの大切な使命です」としつつ、「県民の思いに寄り添い、国の責任において一日も早い御遺骨の収集、不発弾の処理を行っていただきたいと思います」と訴えた。

「日本軍は沖縄戦を、沖縄住民を守るためではなく、あくまで米軍の本土上陸を遅らせ国体を護持するるための持久戦として戦った。その結果、日本軍は首里の司令部が包囲された後も住民が集中する沖縄島南部への撤退を行い、同地では沖縄住民・日本兵・米兵・朝鮮半島出身者が入り交じる泥沼の戦場が作り出された」 そんな歴史認識がなければ、知事がわざわざ平和宣言に盛り込むほど、ウチナーンチュの方々が「遺骨土砂問題」を強く問題提起しているのかを理解することは出来ない。

裏返せば、「沖縄の方々の現在の発言・運動を理解する」という目的意識を持てば、そこから逆算して、沖縄戦のどの部分をとりわけ継承すべきか、リアルタイムで考えることが出来る。目的意識もなく過去の出来事のみを教え込もうとすれば、教員側のやる気も上がらないし、学ぶ側も「なぜ沖縄戦を学ぶのか?」と疑問に思うだろう。「今年は『遺骨土砂問題』を理解するために、沖縄戦を学ぶ」と言い切るくらい目的意識を絞り込み、即時性のあるカリキュラムを組むのも一手なのではないだろうか。

これまで私は沖縄戦の平和学習に関わる教員・ガイドの方々、また実際平和学習を受ける生徒からのインタビュー調査を行ってきた。その際よく俎上に上がったのが、「沖縄戦の凄惨な事実を強調しすぎた結果、戦争を進める国家・軍に対して個人は何も抵抗できない」と思わせてしまう、との問題だ。

皇民化教育や強制動員の恐ろしさを実感した生徒は、「何をすればそのような惨劇を防止できたか?」という具体的なビジョンを持てず、無力感に駆られてしまうのだという。平和の構築者を育むことが平和学習の主目的の一つだとすれば、戦争の凄惨さを強調しすぎる平和学習は逆効果だと言わざるを得ない。

現在進行形の課題を用いた平和学習こそ、このジレンマの解決策になり得るのではないだろうか。「過去を繰り返さないために、今起きている課題にどのような行動を起こせば良いか?」と学び手が自問自答し、実際動きを起こしてみる取り組みが肝要であるように思う。

この間私が取り組んだ意見書採択を目指す運動も一手だ。必ずしも沖縄戦のことに詳しいとは限らない市民や地方議員の方々を説得すべく、自ら「遺骨土砂問題」を学ぶ中で、必ず沖縄戦の歴史まで踏み込んで学ばなければならない。その過程で、「沖縄戦と同じことが現在起ころうとしている」との事実が浮かび上がる。

また、学んだこと・考えたことを街頭行動で市民に訴える(茨木市での取り組みはこちらを参照)ことで、「沖縄戦の継承者として成長しなければ」との主体性・責任感が育まれる。意見書採択という成果を達成出来れば、現在の社会問題を語る上での戦争体験の価値や、戦争体験継承の尊さを実感することが出来る。

茨木市議会では、沖縄戦体験に基づき、「遺骨土砂問題」が全国で向き合うべき「人道上の問題」であると訴え続けたウチナーンチュの方々の声を伝えたために、国政与野党の壁を越えた全会一致採択が叶ったと思う。沖縄戦の教訓を活かし、県議会・各市町村議会での意見書採択の例を積み上げて下さったウチナーンチュの方々の取り組みがあったからこそ、茨木市議会でも人道主義に沿った毅然とした決断を下すことが出来たのだろう。

上京して茨木市での取り組みを報告した際、交流した全国の地方議員の方々から、全会一致が実現したことを特に高く評価して頂いた。茨木市は小金井市のような革新自治体ではなく、国政選挙では自公維新がいつも優勢、市議会議員選挙でも大阪維新の会の候補者が上位の大半を占める保守自治体だ。「そんな場所でも、戦争体験に根ざした人道主義の主張を貫けば全会一致採択が実現出来る」との例を作れたことは、独立した地方自治の取り組みを全国に広げるための貴重な一歩である。

若輩者の僭越なお願いから始まった運動だったが、「サポートユニオン with You」の方々をはじめとする市民の方々と、市議会議員の方々の支えにより、全国の地方自治体にとって参考例になるほどの動きに発展させることが出来た。この場をお借りして深く感謝したい。

その上で、こうした取り組みが一学生でも(選挙権を持たない中高生ですら)可能であることを強調しておきたい。平和学習に取り組む先生から、近年特に「アクティヴラーニング」を求められ試行錯誤しているとの声もよく聞くが、こうした運動を行うのも一つではないだろうか。

勿論、意見書採択を目指す取り組みは、いつも順風満帆で進む訳ではない。茨木市でも、地方自治はまだまだ危うい状況にある。

地元出身の足立康史衆議院議員(日本維新の会)は、茨木市議会での意見書採択を報じた朝日新聞の記事引用リツイートし、「維新市議団の判断ミスです。自公に引っ張られたらダメだという事例です。反面教師にして、対処いたします」と投稿した。

結果、大野ちかこ市議は、「大阪維新の会茨木市議団として、「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」に基づき、人道的な問題認識で提案者になりました。当事者の私達に取材もなく、また意見書に一言も書かれていない辺野古問題に絡めて一方的に報道する無責任な報道機関があることを想定しきれなかった事を真摯に反省し、今後はより慎重な対応を心掛けます」とツイートした。

本来なら地方議員は中央に忖度することなく、自立的な意志決定をすべきだが、地方自治の独立を定めた憲法に違反して圧力を掛ける国会議員の姿勢にも問題がある。そもそも国会議員は最高法規である憲法を遵守する義務があり、憲法違反を犯すなら議員失格だ。

地方は中央の下請けではないし、地方議員は国会議員の下僕ではない。いくら地元であろうと国会議員による不当な介入は許せないし、人道主義に則った判断を貫いた市議の皆さんが不要な萎縮を強いられるのは看過できない。

このような理不尽がまかり通るという事実が、今の日本の立憲主義・民主主義の脆弱性を象徴しているようにも思う。危うさは危うさとして認識しつつも、無力感に陥らず、むしろ「憲法違反を犯した国会議員の再選を許してはならない」との問題意識をさらなる市民の動きへと発展させなければならない。衆議院議員選挙のある今年の喫緊の課題だ。

この記事の執筆者