「返還」から「移設」へという現状追認
それはともかく、この25年目の節目に際して、「なぜ、移設は進まなかったのか」という問いかけになりがちなことには注意が必要だ。25年前を見れば明らかなように、それは「返還」合意であったことを忘れてはならない。いつの間にかメディアで使われる言葉も現状を追認して「返還」から「移設」となり、代替施設なるものも、既存の基地内でのヘリポート設置(返還合意時)から海を埋めたてる大規模な新基地建設へと、似ても似つかぬものに変貌した。
この25年を一言で言うならば、「なぜ、移設は進まなかったのか」ではなく、「これだけ基地が密集している島に、新たに大規模な新基地を建設することは受け入れられない」という、考えてみればごく当たり前の民意が沖縄から示された四半世紀であったということだろう。
普天間返還合意は、1995年秋の痛ましい少女暴行事件を契機に動き出したとされることが多い。戦後沖縄の苦難を集約したような事件の衝撃は甚大だったが、他方で「冷戦後」という構造的な要因が決定的だったことを忘れてはならない。
1989年に米ソ首脳が冷戦の終結を宣言して「冷戦後」の時代が始まると、世界的に「平和の配当」が語られた。冷戦対決に費やされていた資源や資産を、平和目的のために活用しようという気運であり、大田昌秀知事の下で打ち出された米軍基地の大幅な縮小と「国際都市形成構想」は、沖縄からの「平和の配当」構想であった。
そこに冷や水を浴びせたのが、米軍10万人をアジア太平洋に維持するという米国防総省の報告書であり、冷戦後もなお、沖縄米軍基地がそのまま固定化されることを危惧した大田知事がやむなく選んだのが、米軍基地の継続使用に関わる代理署名を拒否するという緊急手段であった。そのままでは借り上げ契約の期限切れとともに、沖縄米軍基地の「不法占拠状態」が発生しかねない。
大田氏が代理署名を拒否する意向を政府中枢に伝えたのは暴行事件が起きる前の1995年夏であり、橋本龍太郎首相が主導した電撃的な普天間返還合意は、代理署名拒否をめぐる大田知事の姿勢軟化をねらったものであった。
こうしてみれば、「移設はなぜ進まなかったのか」という問いは、ずいぶんと問題が矮小化されたものだと見える。全面核戦争の危機をはらんだ米ソ冷戦下で構築された巨大な沖縄米軍基地の負担を、「冷戦後」の時代にあわせて、いかに軽減するかというのが本来の問いであり、大規模な新基地建設は明らかな「筋違い」である。