総選挙で「左に寄り過ぎた」が意味することは?

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「左に寄り過ぎた」が意味することは?

 折しも枝野氏の後任を選ぶ立憲の代表選挙が行われ、泉健太氏が新しい代表に選ばれた。今回の総選挙での立憲の伸び悩みについて、「左に寄り過ぎた」「ウィングを真ん中に広げるべきだ」といった指摘がよく聞かれる。 

私などにとっては、ここでいう「左右」が何を意味するのか、今一つよく分からない。欧米のような緊縮か財政出動かという対立軸については、日本の場合、与野党ともに「ばらまき合戦」となっており、その図式はとても当てはまらない。

 立憲と共産党との提携を批判する図式は、以下のNHKの討論番組でのやり取りに典型的に見てとることができる(JIJI.com〔時事通信〕、2021年10月17日)。「(立憲と共産党は)自衛隊に関する考え方が全く違い、(共産党の)新綱領は天皇制に極めて否定的だ」「体制選択選挙だと訴えなければならない」(甘利明・自民党幹事長)。これに対して立憲の福山哲郎幹事長は「(立憲は)日米安保体制が基軸だ。共産党は限定的な閣外協力だから安心いただきたい」との返答である。

 天皇制について言えば、国会で20人規模の共産党の綱領よりも、与党である自民党内の右派勢力があくまでも男系を主張することによって、皇位継承をむしろ不安定化させているのは大いなる皮肉である。

「冷戦体制メンタリティー」

 このように玉ねぎの皮をむくようにして「左に寄り過ぎた」という指摘の中核にあるものを探っていくと、結局は憲法9条とも絡んだ外交安保の問題に行きつくのだろう。戦後日本では9条・安保を焦点とするイデオロギー対立が、自民・社会の55年体制、そして国際的な米ソ冷戦へと動かしがたくリンクしており、ありとあらゆる問題がこの対立に紐づけられていた。

 そこで形成された国内外での冷戦対立を前提とした発想、「冷戦体制メンタリティー」は今なお政界や言論界に根強い。内政をめぐるさまざまな課題が語られていたはずなのに、「冷戦体制メンタリティー」が介在することによって、いつのまにか外交安保のレベルでの「左に寄り過ぎた」に読み替えられている、といったことがないように十分な注意を払っておきたい。

「右に寄る」ことが日米安保や抑止力の強化を意味するのだとすれば、その種のことは第二次安倍政権で相当程度の態勢構築がなされたので、日米同盟を基軸としつつ、いかに日本外交の幅を広げるかが、与野党を問わず、「ポスト安倍」の課題ではないかと思う。

米中対立が喧伝される中にあっても、最大の貿易相手である中国は日本経済にとって不可欠であり、抑止力や勢力均衡といった安全保障の視座だけではない複眼的な発想が必須だろう。昨今、話題の経済安全保障にしても、根本的な問題は産業競争力や科学技術力の低下など、日本の足元にあることを直視する必要がある。

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