未完のサンフランシスコ体制と沖縄復帰50年【上】

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中国参加をめぐる米英の不一致

 サンフランシスコ講和会議を主導したのは米英であり、日本ではどこか憧れにも似た眼差しで、米英関係の緊密さが強調されることも多い。しかし当時のアメリカがソ連との冷戦対立を重視したのに対し、依然として世界に多くの植民地を抱えるイギリスにとっては、植民地帝国の維持が重要な関心事であった。

 この食い違いは講和会議をめぐっても露呈し、朝鮮戦争で中国(中華人民共和国)と直接、戦火を交えたアメリカが台湾に逃れた蒋介石の国民政府(中華民国)の講和会議参加を主張したのに対し、アジアの拠点である植民地・香港の維持を重視するイギリスは中国の参加を主張した。結局、講和会議には両方とも招かれず、日本はその後、アメリカの圧力で台湾の国民政府と国交を結ぶ。

認められなかった韓国の参加

 サンフランシスコ講和会議には韓国も参加していない。講和会議はあくまで第二次世界大戦をめぐる対日講和なのだから、そもそも日本の植民地だった韓国が参加する方がおかしいと思われるかもしれないが、実際にはそうでもなかった。

 1948年に建国された韓国(大韓民国)は、1910年の日韓併合の後、上海に存在していた臨時政府が連合国の一員として対日戦争に参加しており、それを引き継いだ韓国がサンフランシスコ講和会議に参加できるはずだと主張したのである。

 アメリカ政府内では韓国の主張を容れ、講和会議参加を認める考えもあったが、これに反対したのがイギリスであった。世界各地に植民地を保持していたイギリスにとって、韓国のような植民地であった国が講和会議に参加するという前例を作ることは、植民地帝国の安定を損ねる可能性があるとして、これを拒否したのである。

かくして韓国の参加は認められず、日韓二国間に委ねられた国交正常化交渉は、冷戦下で同じ自由主義陣営でありながら、1965年までかかって、ようやく国交樹立が実現した。

【以下、<下>に続く】

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