未完のサンフランシスコ体制と沖縄復帰50年【上】

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「全面講和」か「単独(片面)講和」か

 サンフランシスコ講和をめぐっては、従来、国論を二分した「全面講和」か「単独(片面)講和」かの論争に重点がおかれてきた。高校の歴史教科書でも、「冷戦が深まるなか、日本国内では講和のあり方をめぐる論争が高まり、全面講和と単独講和の二つの主張が対立した」(『高等学校 歴史総合』第一学習社)と記される。

 ヨーロッパに始まった冷戦が、朝鮮戦争などで日本周辺にも波及する中、全面講和論は米ソ対立に巻き込まれることを回避するためにも、ソ連など東側陣営も含めた全面的な講和が必要だと主張した。これに対して単独講和論は、全面講和は冷戦対立の現実をみれば不可能であり、このまま占領がつづくことを避けるためにも、まずはアメリカなど西側陣営を中心とした講和を進めるべきだという立場である。

講和条約と安保条約

 結局、当時の首相である吉田茂の下、日本は単独講和に踏み切り、講和条約の調印と同日、日米安保条約にも調印する。それまで占領軍であった米軍が安保条約の下、「在日米軍」に衣替えして駐留をつづけるという仕組みであった。

 このとき社会党は、安保条約と講和条約の両方に反対する左派と、講和条約には賛成だが安保条約に反対する右派に分裂した。その後、1955年に右派社会党と左派社会党が再統一されると、これに対抗した「保守合同」の結果、誕生したのが自由民主党であった。戦後政治の骨格を成した「55年体制」の始まりである。

それから今に至るまで、日本政治では憲法9条も絡んだ安保問題が対立軸の中心を成してきた。「全面講和」か「単独講和」の論争に重きが置かれてきたのも当然なのだろう。

アジアの「不在と分裂」

 しかし、その発効から70年を経た今日、サンフランシスコ講和におけるアジアの「不在と分断」が、いまなお、あるいは今となって一層、この地域に色濃く影を落としていることに気づかされる。

不在とは、この講和にアジア諸国の多くが参加していなかったことであり、アジア諸国の参加はフィリピンやインドネシアなど一部に限られていた(そのインドネシアも、日本による賠償が役務〔例えば沈没船の引き上げ作業など〕に限定されたことに反発して批准しなかった)。

アメリカは講和条約の米英主導色を薄めようと、当時、中立主義の旗手であったネルー首相率いるインドの参加を強く望んだが、ネルーは主権回復後の日本がアメリカの軍事ブロックに組み込まれ、沖縄が分離されることを批判して、参加を見送った。

 そしてとりわけ、日本に近接する中国、朝鮮半島はこの時、ともに分断状態となっており、以下で見る米英間の食い違いもあって講和会議に招かれることはなかった。

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