復帰から半世紀というイベント
下記は初代沖縄県知事の屋良朝苗氏が日本政府主催沖縄復帰記念式典で読み上げたものの抜粋だ。
さて、沖縄の復帰の日は、疑いもなくここに到来しました。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります。そこには、米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵するいろいろな問題があり、これらを持ち込んで復帰したわけであります。したがって、私どもにとって、これからもなおきびしさは続き、新しい困難に直面するかもしれません。
沖縄は、長く、苦しかった試練を乗り越え、いまここにその夜明けを迎えました。復帰は、まさしく沖縄という新しい生命の誕生でありますし、私ども県民は、これまでの基地の島という暗いイメージを払拭し、新たな自覚にたって県民自治を基調とする「平和で、明るい、豊かな県づくり」に邁進するとともに、文化豊かな社会の建設に真剣に取り組み、国家繁栄のために貢献する決意であります。
1972年5月15日、27年間のアメリカ統治が終わり沖縄は「基地のない島」を願い復帰した。私が想像もつかない展望を胸に、それぞれの思いで復帰の日を迎えただろう。
しかし日米安全保障条約という縄で沖縄を縛り付け、米軍基地はそのまま居座り、日本にある米軍専用施設の、実に70・3%が押しつけられるという、基地のない島と対極の島となった。
50年。18250日。こちらに上京して1ヶ月。沖縄の基地関連ニュースは指10本に収まるほどの回数しか全国ニュースで見た事がない。
しかしここ数日、5月15日を前に復帰から半世紀というイベント事のような見出しで特集が組まれ放送されている。式典は誰の為に何の為にやるのかと自問自答する。そしてきっと5月15日が過ぎたら沖縄だけに押し付けたまま、50年と1日、2日、3、4、と日は進むかもしれない。
復帰の50年後、若者1人が政府に辺野古新基地建設断念を求め、ハンガーストライキしている。彼より長生きしている一人のウチナーンチュとして申し訳なく思った。こんな復帰50年を迎えるはずではなかったはず。基地を持ち込んだままの復帰では、本当の復帰ができないだろうと思った。
私は普天間基地のある沖縄県宜野湾市で生まれ育った。異常な現今を訴える事しか出来ないが、でもこれから先、何が沖縄の為に出来るか選択し行動したい。改めて東京での生活で思った。