復帰50年-沖縄と本土の「戦後・冷戦後・ポスト冷戦後」

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復帰で「戦後」がやって来た

翁長雄志知事の時代だが、菅義偉官房長官との話し合いがすれ違いに終わった翁長知事が、「私は戦後生まれなので、歴史のことを持ち出されても困ります」という菅氏に対して、「お互い、別々に戦後という時代を生きてきたんですね」と述べる一幕があった。

 1972年に沖縄が本土復帰をしたとき、上述のように日本本土では戦後という時代が終わりを告げつつあった。これに対して沖縄は、この返還までは、本土でいうところの占領期(日本政府の上にGHQ〔連合国最高司令部〕が君臨していた)だったといってもよかろう。戦後が終わりつつあった本土と、27年間の占領期を経た沖縄という二つの歴史が重なり合ったのが50年前の復帰の日だった。

 復帰によって猛烈な勢いで日本本土からカネとモノが流入し、物質的な「本土並み」を目指してインフラや産業基盤の整備に多額の振興予算が投入された。沖縄にも「戦後」が遅れてやってきたのである。

「冷戦後」のすれ違い

1989年、地中海に浮かぶマルタ島で米ソ首脳が冷戦の終結を宣言した。日本国内では昭和天皇が逝去して昭和が終わりを告げ、これに前後して自民党が下野し、与党・自民党と最大野党・社会党という組み合わせの55年体制が崩れ、政権交代と連立の時代に入る。

アメリカが経済的に疲弊する傍らで、経済的絶頂期にあった日本では、「これからは経済の時代、すなわち日本の時代だ」といった高揚感も見られたが、直後に起きた湾岸戦争で「平和国家」のあり方が大きく揺さぶられることになる。

 一方の沖縄では、冷戦の終わりによって「平和の配当」が希求される。米ソ冷戦が終わりを告げた今こそ、過重な基地の負担を大幅に軽減する好機だ。そう考えた当時の大田昌秀知事が直面したのが、アジア太平洋に米軍「10万人体制」を維持するという米政府の方針だった。これに日本政府も縛られると沖縄の広大な基地の固定化につながりかねない。

 危機感を強めた大田知事が重い決意で踏み込んだのが、米軍基地の使用に関わる代理署名の拒否であり、これによって軍用地の契約切れで米軍基地が不法占拠状態となりかねない状況となった。この流れを何とか変えようと、橋本龍太郎首相が米側と電撃発表したのが普天間基地の返還合意だった。

とはいえ、代替施設の具体像がないままの返還合意は危うさをはらむものだった。案の定というべきか、政治の統率力の不足というべきか、当初、ヘリポートとされた代替施設は海上施設を経て、辺野古沿岸を大規模に埋め立てる新基地計画に変貌した。

「冷戦後」をようやく訪れた基地削減の好機と捉えた沖縄(逆にいえば、このチャンスを逃せば基地の固定化となりかねないという危機感)と、その訴えに首肯しつつも、「基地が来るのは困る」という本土の「本音」の間で、これを架橋する政治指導力の不足もあって、「平和の配当」を求める沖縄の願いは、辺野古新基地をめぐる政府との対立と、本土との溝とに行き着いた感がある。

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