「日本人が血を流す」
以上のように「攻撃の意図」という問題を組み込むならば、議論の対象が政治外交的な領域に広がるのである。しかし世論調査を見ても、例えば敵基地攻撃論への支持が6割を越えている。ここには、ウクライナ戦争の衝撃の大きさが表れていると言えるであろうし、日米関係における従来の「矛と盾」の役割分担を抜けだし日本も「矛」の役割を担うべきとの認識が広まっていることを示している。つまり、日本人が血を流す覚悟を持たねば米国人は血を流してくれない、というレトリックが大きな影響力を持っているのであろう。
それでは、果たして米国人は台湾有事や沖縄有事、日本有事に際して血を流してくれるのであろうか。ウクライナ情勢を見るならば、それは否と言わざるを得ないであろう。昨年12月にバイデン大統領は早々と、ウクライナに米軍派兵の考えはないと明言した。ウクライナがNATO「域外」との理由であるが、1999年には「域外」のセルビアに「人道的介入」を掲げて大規模空爆に乗り出した歴史を踏まえるならば、核大国ロシアとの直接対決を避けウクライナ侵略を“誘発”したと批判されてもやむを得ないであろう。その代わりに米国はウクライナに大量の兵器を供与してロシア軍と戦わせる道を選んだ。つまりは、ウクライナ人が流す血をもってロシアの「弱体化」を目指すというのであるから、文字通りの「代理戦争」に他ならない。
NATOの場合、加盟国に敵の攻撃があれば集団的自衛権に基づいて米国などは「自動参戦」する仕組みになっているが、台湾の場合は、バイデンが意図的に発言を操作しているが、「あいまい戦略」の継続が基本である。日米安保は同盟関係にあるとされるが、米国の参戦は「憲法上の規定と手続き」に従ってなされるため議会の承認が必要で、「自動参戦」が保障されている訳ではない。さらに、言うまでもなく中国は核を持つ大国であり、ロシアの場合と同様に米国との直接の軍事対決となれば本格的な核戦争を伴う第3次大戦に至る恐れがあり、米国は躊躇せざるを得ないであろう。
そもそも、米国では2年毎に大統領選挙と中間選挙を控えるシステムとなっており、アフガンからの撤退以降、米軍人が犠牲になったり米本土が攻撃されるような軍事戦略をとることは、いかなる大統領にとっても支持基盤や選挙民を考えるならば採り難い選択肢である。「米国の若者は海外の戦場に行きたくない」のである。それでは、「主敵」とされる中国といかに対峙するのであろうか。それは、台湾や日本に膨大な兵器を供給し「自助努力」によって「中国の弱体化」をめざして戦わせる、という戦略であろう。要するに、「アジア人同士を戦わせる」ことによって消耗戦に引きずり込む、ということである。ここでもまさに、代理戦争が展開されることになる。
この代理戦争において日本では、台湾有事に備えて急速に軍事化が進む沖縄が戦場となることは間違いない。いわば「代理戦場」である。ところが政府も防衛省も「島民保護」の具体的な対策を何ら講じようとしていない。犠牲を最小限に止めるべき「軍民分離の原則」の重要性も、ほとんど認識されていない。こうして、大戦末期と同じく、再び沖縄の人たちの血が流されようとしている。南西諸島が逃げ場のない「戦場」と化すことを回避する具体策が構築されないかぎり、軍事化を進めるべきではない。これが無視されるならば、それは歴史への冒涜であり、日米両政府による人権侵害の極みである。(拙論「沖縄の戦場化と国民保護法」『オキロン』2021年6月)」
「核には核を」
「代理戦争」の可能性が危惧されるなかで、米国を“巻き込む”ための方策が検討されている。それは、日本を拠点に米軍による核攻撃の態勢を整えることによって中国の「核恫喝」と対決する、つまりは「核攻撃に核攻撃で報復する」という意志を明確に示すことであり、具体的には、戦術核を蓄えておいてステルス戦闘機で核攻撃に出るとか、攻撃型核原潜の日本への配備である。これでは「敵の核に狙われる」のではないかという批判に対しては、「ピストルを持った敵にピストルを向けるから撃たれないのである」との反論がなされる。
この議論は、「銃を持てば持つほど安全」という全米ライフル協会やトランプが展開する論理そのものであり、その結果いまや米国では4億丁を越える銃がでまわり乱射事件が繰り返され、2020年には銃による死者は4万5千人に達した。まさに戦争であり「安全神話」は崩壊したはずであるが、実はこの「安全神話」の論理こそ、いまの軍拡競争を支えている論理そのものなのである。「軍拡すればするほど安全」という議論がいかに空虚なものか、米国社会を見れば明らかであろう。
ところで驚くべきは、上のような議論を展開しているのが、安倍政権で国家安全保障局次長を務めていた人物(兼原信克氏)に他ならない、ということである。背筋が寒くなる思いである。いずれにせよ、上の構図では中国による日本への核攻撃が想定されている。それでは、中国はいかなる目的でいかなる意図をもって日本に核攻撃を加えるのであろうか。邪悪で悪魔のような指導者を擁しているからであろうか。
ところが実は、2019年6月に当時の安倍首相は習近平国家主席に国賓としての訪日を要
請し、12月の訪中時に再確認され、日程としては20年4月が予定された。この国賓訪日に配慮して安倍政権は中国人観光客へのコロナ水際対策を遅らせ、その結果コロナの国内拡散を招くこととなった。結局、コロナの蔓延もあって来日は延期されたが、すでにウイグルやチベットや香港や台湾などの諸問題が山積しているにもかかわらず国賓来日を要請したのは、「対話の可能性」「交渉の可能性」を信じていたからであろうか。とすれば、緊張が増大している今こそ、改めて国賓訪日を要請すべき、ということになるのであろうか。あるいは、そもそも日本に核攻撃をかけてくるような「非理性的な独裁者」を国賓として招いたことは、安倍首相の重大な誤りであったのであろうか。プーチンやトランプに対するのと同様に、安倍外交の深刻な負の遺産なのであろうか。
「米中対決」の虚実
こうした安倍外交の本質にかかわる国賓招請について何一つ説明責任を果たさないままに、安倍氏は中国の脅威を念頭に、核共有や敵基地攻撃や軍拡を煽っている。無責任の極みであるが、こうした扇動が影響を及ぼしているのであろうか、今や大半のメディアや野党第一党までもが軍備拡張論に与しはじめた。そうであれば、中国脅威論の前提となる「米中対決」の現実を、改めて冷静に見ておく必要があろう。
実は中国の貿易統計によれば、2021年の対米貿易は輸出入ともに前年比で3割も増えて過去最大を記録し、貿易での相互依存が高まっているのである。製造分野でも、周知のようにアップル社の製品の90%以上が中国で生産されているが、米EVの最大手テスラも上海に大規模工場を構えるばかりではなく、人権問題の渦中にあるウイグルの区都ウルムチにも豪勢なショールームを開設した。さらに政権レベルでも、中国に対する「トランプ関税」を米国の消費者やビジネスに「有害」との理由で引き下げることが検討されている。中国からの輸入が米国全体の2割を越えて第一位であるという現実を無視できなくなったのであろう。まさに「米国第一」の観点から対中制裁を緩和しようというのである。
考えてみれば、バイデン政権の対中政策の基本は「対立、競争、協調」であるから、「協調」の側面が強められことになっても何ら不思議なことはない。そういう事態になったとき、中国脅威論一色の日本は“はしごを外される”という醜態を演じることになろう。他方で、そもそも日本も主要企業をはじめ1万3千社以上が中国に進出しているのであり、そうであれば、「日中有事」が勃発した際に日本政府はどのように対応すべきなのか、あるいは「有事」を引き起こさないために何をすべきか、それこそ「主体的」に考えねばならない。
いずれにせよ、今や明らかになってきたことは、中国包囲網の形成を企図する「自由で開かれたインド太平洋」構想の成否を握っているのがASEAN諸国に他ならない、という現実である。これら諸国は、米中いずれかの二者択一を迫られることへの警戒心が強く「中立」志向が顕著である。その背景には、かつての日本による植民地支配や米国のベトナム侵略などの歴史が「潜在意識の中に常にある」という問題があり、中国への経済的依存も含めて、単純な中国脅威論を共有できないのである。
逆にいえば、東アジアの緊張緩和にむけた道筋を描くとき、ASEAN諸国との提携がきわめて重要な位置を占めている、ということであろう。その際、日米両政府は南・東シナ海における「国際ルールの順守」を掲げているが、そうであれば、米国自らが「海のルール」とされる国連海洋法条約を批准すべきである。先進諸国の中で唯一批准をしていない米国は、「単独行動をとることが阻害される」との理由を挙げるが、これなどは一極時代の名残としての「例外主義」を引きずるものであり、中国によるルール無視に格好の口実を与えている。今や日本も米国の批准を要請すべきであるし、こうして、ASEAN諸国との提携も強化されるはずである。