ある「右翼」の問いかけ――「沖縄の米軍基地を東京へ引き取る」という劇薬

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4、「基地移転」への異議

基地問題を考える「本土」の人々でも、「引き取り」に賛成するのは多数派ではない。4月、「本土に沖縄の米軍基地を引き取る福岡の会」に招かれ、福岡市内で講演したとき、会場の一人の男性から異議の声が上がった。

 男性は「『沖縄の基地問題』ではなく『日本の基地問題』であり、主権者として自覚すべし、と。そのことは深く共感できる。しかし違和感がある。基地移転は解決にならない」。

 続けて「福岡県にも自衛隊基地があり、『沖縄の負担軽減』の名目で日米共同訓練が行われている。長年そこで座り込みを続けて抵抗し、監視している人がいる。その人たちにすれば、『沖縄対本土』というとらえ方で沖縄の基地をそこに持ってくるというのは承服しがたいと思う」。

 そしてこう問うた。「基地をなくすこと、安保をやめることが王道ではないですか?」

中村氏は答えた。「復帰から50年、王道を続けてどうなったでしょう。『基地はいらない』と言い続けるだけならどんなに楽か。安保と米軍基地は必要という8割の人々を説得できない私自身の責任として、私の住む街に近い東京に基地を引き取るということです」

 「『沖縄対本土』と言うと、『本土』で基地と向き合い、被害を受けている人たちが見えなくなる。その表現は乗り越えるべきでは」と男性。

「それは課題になると思います。『引き取り』という言葉にも語弊があると思っています」と中村氏。

 もちろん、短時間で決着のつく話ではない。

米軍基地引き取りの考えについて語る中村之菊氏(奥)=2022年4月10日、福岡市東区

安保を否定する立場の人々からは「沖縄にいらないものは、『本土』にもいらない」と言われてきた。一方で沖縄では、その言説が沖縄の現状を固定化させてきた、という指摘がある。「基地引き取り」が正解か否かはともかく、これまで「本土」の政治家も言論人も民衆も、その先に何の「解」も示すことができてないという事実にどのような形で向き合うのか。そのことは誰もが問われている。

5、「国民的議論」につなげる

中村氏の問いかけを見据えるうえで、筆者自身の考えも述べておくべきだろう。米軍基地の「本土引き取り」に賛成か否か、と問われれば、私は賛成ではない。

 むろん、国民の大半が日米安保を支持するならば「本土」も米軍基地を応分に負担すべきだ――という沖縄からの「求め」が、この上なく正当であるのは言うまでもない。そこに反論の余地は見いだせないし、なおかつ、われわれ「本土」の日本人が耳をふさぐことが許されないのも当然だ。

 そのことは大前提である。そのうえで、そもそも現在日本に駐留しているアメリカ軍の存在理由を考えた時、日本の安全のために本当に必要な部隊がどれだけいるのか、は検証されなくてはならない。少なくとも沖縄駐留の海兵隊については日本国外に撤収しても日本の安全保障に影響はない、と私は考えている。

 海兵隊が管理している基地駐屯地は沖縄の全米軍基地面積の約7割を占める。詳細はここでは触れないが、近年、海兵隊は戦力構成の大幅な改編を打ち出し、日本、とりわけ南西諸島を中国との武力衝突の戦場にしようとしているとみられる。平時から事件や事故が一番多いのも海兵隊だ。そういう点からも国外撤収の方が日本の平和と安全には有益と考える。もし、それを「本土」に「引き取る」となれば、別次元の複雑な議論にエネルギーを費やさざるを得ないのは自明だ。

 そう考えつつも、一方で、そのような「複雑な議論」こそ、今日の日本には必要不可欠ではないか、と認めざるを得ない。海兵隊の国外撤収という主張が、体制側はおろか、基地建設に反対する人々にさえまったく浸透せず、見向きもされない現状を考えれば、中村氏や引き取り運動の主張が、無関心な人々に「問い」を突き付けて基地をめぐる議論をより「複雑化」、というか、より「拡散」させることは、むしろ何らかの突破口につながるかも知れない。さまざまな主張や論理が注ぎ込まれ、国民の注目とエネルギーを集め、「国民的議論」につながる起爆剤になり得るのではないか。敗戦から77年間、私たち日本人がサボってきた議論を覚醒させるための「劇薬」になるのではないか。そう思えてもくるのだ。

 「沖縄の米軍基地を東京へ引き取る」は、参院選東京選挙区の主要争点ではない。だが、この問いかけが首都決戦で少しでも注目されたら、と願う。あいも変わらぬ「敗戦後日本」の「国民的思考停止」に冷水を浴びせて、議論せざるを得ない状況を作り出す発火点にできたら。そのための火付け役になってほしい。その期待には自省と自問を込めている。

【本稿は「note」より転載しました】

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