『帝国アメリカがゆずるとき』は非対称同盟を「均衡、共同体、統制、負担という四つの側面が結合した捉え難い存在」と規定する。日米同盟の場合、「共通の脅威に対抗するための盟約」とうたわれたり、「リベラルな価値に基づく共同体」と理解されたりもする。他方でこれによって日本は米国に従属させられている、また逆に日本は米国に「ただ乗り」して負担を回避しているとの批判もある。
問題は、この全ての側面を併せ持った存在が非対称同盟であるにもかかわらず、それぞれの立ち位置によって一部のみに注目して全体と誤認してきたのが、これまでの日米同盟論だと著者は喝破する。密接に関連する事象の一部に寄りかかって議論を組み立てれば全体像を見失うのみならず、その部分についての解釈も歪んでしまうからだ。
沖縄の米軍基地に関してはどうか。1960年代末の沖縄返還交渉と日本本土の米軍基地縮小に対し、米国は「譲歩」とも見られる対応をした。それは、沖縄の返還という領土問題も、本土(とりわけ首都圏)の基地問題も、日本政府の親米姿勢の維持を難しくしかねないナショナルな課題だったからだ。その後はどうか。「沖縄返還」は日本全体の問題だったが、沖縄基地問題はローカルな課題であって同盟全体を揺るがすナショナルな懸案に発展する危険性は高くない、という米国の認識は沖縄の基地縮小が進まない現実に投影されている。
裏を返せば、1996年の普天間返還合意時のように、沖縄の反発が日米同盟を揺るがす事態だと判断すれば米国は動く。ただし、鳩山政権で「普天間の県外移設」が挫折したように、対米協力や統治能力の面から信頼を獲得できない政権の場合、米国は譲歩するインセンティブを持たない。
だが今や、米国は国際秩序を形成する意思すら失いつつある。そんな中、沖縄の状況が日本のナショナルな課題に浮上することは、この先あるだろうか。むしろ日本の「国難」が叫ばれる時ほど、沖縄の地域性がくみとられなくなるのが常だったように思われる。「個」として生きる誰もが生きづらさや不満を抱える社会で、「小さな声」に耳を傾ける余裕がなくなるのは必然なのかもしれない。
小説『ユナ』は、消滅した貝に執着する主人公を通じ、利己的な人間の営みを「はかない幻」と突き放す。ユナとは砂州のこと。異世界から現世をのぞき見するような視座をもつこの著者と、「貝の宝庫」と呼ばれる沖縄県名護市の瀬嵩浜を一緒に歩いたことがある。新基地建設のネックとされる「軟弱地盤」の大掛かりな改良工事が進む眼前の大浦湾の海底は、豊かな貝の生態系を育む「ゆりかご」として機能してきた。
この浜で拾い集めた約800種の貝を展示する私設資料室を2018年から21年まで開設していた彼が、目の前で大事なものが失われていく現実をどう捉えているのか知りたかった。だが彼は一緒に歩いた時も小説の中でも、断片的な言葉の上っ面で安易に内面を解釈することを許してくれなかった。
『ユナ』は「第50回新沖縄文学賞」に選ばれた。作家の赤坂真理は選評で「これは現代の『苦海浄土』だ」と解説した。拠り所となる普遍的な価値を見失いかねない今だからこそ、声なき命の尊厳を照らす言葉に救いを感じる。
【本稿は2025年4月28日付毎日新聞記事を一部修正の上、転載しました】