自民党大会で「辺野古反対」を叫ぶ
松原)宜野湾市の米軍普天間基地の代替施設を造るため、名護市辺野古の埋め立てが進んでいます。普天間・辺野古問題について亜門さんはどのように考えていますか?
亜門)小泉純一郎さんが首相だったとき、自民党の党大会に招かれました。小泉さんはブロードウェイで僕が「太平洋序曲」を上演するとき、応援していただき、親交があったんです。
党大会に出席するに当たっては、「僕は国民代表でも何でもありませんよ」と事前に断ったんです。そうしたら小泉さんは「いや、亜門さん、好きなこと言ってくれればいいんですよ」って背中を押すんです。だから僕は、大会のあいさつで「辺野古移設には反対です」っていきなり宣言しちゃったんです。そうしたら、ヤジが飛び交うような状況になってしまい……。僕はヤジを飛ばされたの初めてだったんですが、あのときは負けるどころか、もっと強く自分の思いを語っている自分に驚きました。思いが強いと、ヤジはかえってエネルギーを与えてくれるんですね。「今日は、小泉首相に言いたいことを話してよいと言われたので、自分の思いの丈を言わせていただきます。辺野古の海は何とかそのままにしてください。皆さんに期待しています!」と続けたんです。数時間後に怖くなって身震いしたのを覚えています。
松原)そんなことがあったんですか。沖縄の自然や風土に対する亜門さんの思いは、南城市に家を持つことになった経緯からも浮かびますね。南城市の家の話に戻りますが、東京や世界中で仕事をする機会が多い亜門さんが沖縄に家を持っても、結局沖縄に帰る時間を十分確保できなかった、ということなんですか?
亜門)最初はね、もっと帰ると思っていたんですよ。意地でも1年の半分は帰ろうと思っていた。ヨーロッパ的というわけじゃないけど、年に半分くらいは仕事をして、半分は少し落ち着いてっていう生き方を描いていたら、やっぱり日本ではそういうことはまだできなかった。
松原)なるほど(笑)。でも、そもそもなぜ沖縄に家を建てようと思ったんですか?
亜門)あの当時の「家」に対する感覚が、ちょっとうまく表せないんだけど、家だと思ってないんですよ。建築家と土地を探しているときに、御嶽とか、お墓とか、沖縄のいろんな「祈りの場所」に出会ったんです。僕は沖縄のこうした精神性にやられちゃったんですね。家を建てるときに地鎮祭を催してもらったんですが、神事が一通り終わったタイミングで、夕日がバーッと見えて、あーきれいな夕陽だなって感動していたとき、地鎮祭に招待していた版画家の地元アーチスト、名嘉睦稔さんがこう言ったんです。「ここに土地を買ったと思わないでね」って。土地を買ったばかりで、これからまさに家を建てようとしているのに……。
睦稔さんが言いたかったのは、ここは地球の土地だから、ということだったんです。亜門さんの肉体もいつか朽ちるでしょう、この家も朽ちるからね。一時的に借りているだけだから、と。はぁーと思って。睦稔という人はそういう考え方を持っているんですけど、これこそ、僕が一番求めているものだと衝撃を受けたんです。そんなことがあって、違う視点でものを見るようになりました。自然とか、地球とか、そっちのほうから人間を見るような感覚って、自分自身の存在を違う視点から教えてくれているようで、とても幸せになれるんです。