東京の大学生が“沖縄ヘイト”問題を考える【上】

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「現場」に足を運び、体験する

 

この文章を書いた女子学生だけでなく、殆どのゼミ生にとって「デモ」の現場を間近で見ること自体が初めての体験であり、今回の沖縄滞在の中でも最も印象に残るものだったようだ。

だが、彼らが「“デモ”の現場を初めて見た」というのは、実は正しくないだろう。実際には、ふだん彼らが大学生活を送っている東京でも、様々な主義主張を掲げるデモ行進や座り込みは毎日のようにどこかで行われており、彼らも目にしていないはずはない。

しかし、彼らにとってデモ行進や座り込みなどによって政治的主張をする人々の姿は、どこか「自分とは関係のない」「他人事」、悪くすると「アブナイ人達」「変な人達」による「極端な行動」と捉えられてしまいがちなのだ。そして、そうした人達の姿は、目にしていたとしても、殆ど「風景」のようにしか認識されていないのかもしれない。

 

社会学で「メインなきサブカル化」ということが言われるようになってすでに久しい。「メイン=エスタブリッシュメント」に対するカウンターとしての「サブカルチャー」だったはずのものが、いつのまにか「メイン」が消滅して「サブカルチャー」だけが無数に並存しているという状況のことを言う。

そうした状況においては、基地問題や原発再稼働問題など一国のあり方に関わるような大きな政治的問題や社会的問題であっても、少なくない若者たちにとっては(そして実は大人達にとっても)、「そういうことの好きな一部の人達(=オタク)」だけが関わっていればよい領域として、「他人事化(=サブカル化)」されてしまう傾向がある。

 

しかし、「沖縄ヘイトとジャーナリズム」を研究テーマに設定し、事前学習やヒアリングを重ねてきた彼らにとって、辺野古での反対派の座り込みはもはや「他人事」ではなくなっていた。だからこそ、機動隊と対峙する反対派の人達の姿に、彼らは強い衝撃を受けたし、涙を流す者さえいたのだ。おそらく、この時に初めて彼らは「沖縄ヘイト」や「基地問題」を文字通り「問題」として捉え、正面から向き合うことになったのではないかと思う。

【以下、次回に続く】

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