おわりのはじまり

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<2017年12月7日午前10時20分ごろ、米軍普天間飛行場から約300メートル離れた沖縄県宜野湾市内にある「普天間バプテスト教会付属緑ケ丘保育園」で、円筒形の物体が屋根に落ちているのを職員が見つけた。落下物は高さ9・5センチ、直径7・5センチ、厚さ8ミリ、重さ213グラム。「ドン」という音に職員や園児が気づいた。沖縄県警は、同園のトタン屋根の上で、落下の衝撃によって生じたとみられる窪みを確認している。一方、米軍はこの物体が米軍ヘリの部品であることを認めたものの、飛行中の機体から落下した可能性は「低い」と説明。その後、園には「自作自演」など誹謗中傷する電話やメールが相次ぐようになった。こうした中、園の父母会メンバーらが園上空の飛行停止などを求める署名活動を展開。18年2月には、父母会会長ら7人が東京・衆院議員会館で防衛省や外務省の担当者らに対し、米軍ヘリの園上空飛行禁止などを求めた署名10万535筆を提出した。沖縄防衛局に提出済みの分を含めて計12万6907筆の署名が集まった。1月に続いて、父母会副会長の知念有希子さんに今、感じていることを文章にまとめ、オキロンに寄稿していただいた。今回も、タイトルは知念さんに付けていただいたものです>

異様な空間だった

 

2017年12月の部品落下事故から2ヶ月後、18年2月13、14日、私たち緑ヶ丘保育園父母会は、13万筆にやがて達する賛同の署名を持参し、沢山の思いを背負い上空飛行禁止を求め、要請行動の場、東京の衆議院会館に辿り着いた。

母親たちが内閣官房、外務省、防衛省へ直に訴えかけ各政党を回り呼びかける。

これはこういう事になってしまった2ヶ月前の現実。何も改善されなかった1つの結果でもあった。

あっという間、でも1年が経ったのではないかと思えるような日々。

その何も変わらなかった私たちの答えを持っている目の前の3つの省庁との距離は、山のように積まれた署名を間に挟みわずか数十センチ。当事者と国。異様な空間だった。私たち父母6人は思いを叫んだ。

『ただシンプルで当たり前の子どもたちの空を守りたい。だから上空を飛ばないで、とアメリカ軍へ言って下さい』

1番誰が聞いても分かる言葉。何も難しくない。それが伝わらない、通らない。

『米側の調査待ち』『事実確認中』『政府としても引き続き申し入れをする』

機械みたいな同じセリフ。直接訴えたい大臣ではなく、担当窓口の人たちからこんな回答をもらうために12月から行動を起こした訳じゃない。

虚しさがこみ上げた。もう誰に訴えれば子どもたちの空は安全になるんだろう。日本人だけど日本が嫌になった。誰かに助けて欲しくて、大人になって初めて声に出して『助けて下さい』と泣いて訴えた。誰でもいい、雨しか降ってこない空にしてくれるのなら、どんな事でもするし、どこへでもお願いをしに行きますと懇願した。

政府要請は虚しさと何も解決の糸口が見えないまま、政府側のリアルな対応に直面し、終了後みんな椅子から立ち上がる気力が無かった。

国は子ども、沖縄の空を守るのでは無く、軍側アメリカを守ってる。意思がない国。何かを得るより身がもがれ失う感覚の方が多い時間だった。

 

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