逆説に傾く寄る辺なき民意

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 暴力化する日本の平和主義

とはいえ、沖縄の基地負担の源流をたどれば、人々の内面に植え付けられた懊悩を「沖縄内部の問題」とは片付けられない。

『沖縄 憲法なき戦後』(みすず書房)で古関彰一、豊下楢彦の両氏は平和憲法と日米安保の矛盾を覆う日米合作のフェイクを暴き、「問題の根幹は、軍事の論理ではなく、憲法の有無、政治の論理に行きつく」と射抜く。

「政治の論理」とは多数派の論理だろう。沖縄の民意を圧殺し、歪めてきた当事者は本土の「私たち」ではないか。その罪は「護憲派」にも及ぶ。

琉球大学の森川恭剛教授は、『けーし風』第97(新沖縄フォーラム刊行会議)の「刑事人権と沖縄の平和主義-山城博治氏らの裁判を傍聴して」と題した論考で、平和主義に内在する暴力性を指摘する。

「沖縄に戦力があり、日本には戦力不保持の憲法九条がある。沖縄から見れば『本土の沖縄化』を防衛してきたのが憲法九条であり、戦後日本の平和主義は軍事的に沖縄に犠牲を強いる沖縄差別の論理として機能している。そして日本国政府は今や積極的に警察力を用いて沖縄に基地を押しつけようとしている。日本の平和主義が暴力化している」

「平和主義の暴力化」とは、具体的には「沖縄防衛局の工事の強行」である、と森川教授は唱え、「工事に抗議して座り込む者を排除し、拘束し、さらに逮捕し、勾留し、場合によっては起訴して有罪判決を言い渡す」ことは、「沖縄の平和運動は犯罪的であり、正義は日本国政府にあると装うための方法である」と指弾する。そしてこう続ける。

「しかし沖縄では、同じ平和主義の名の下に、工事は中止されるべきであると考えられている。これは沖縄戦と基地被害の歴史に基づく思想であり、沖縄の平和主義と呼ぶべきである。ただし法律論としては、これを日本国憲法の平和主義として解釈するほかなく、この解釈論が日本の裁判所に通用するかが裁判の主な争点である。違法工事の違法性とは実質的には沖縄の平和主義が侵害されることである」

辺野古や高江での米軍基地建設に対する抗議活動中に威力業務妨害や公務執行妨害・傷害などの容疑で逮捕、起訴された沖縄平和運動センターの山城博治議長ら3人に対し、那覇地裁は315日、「犯罪行為で正当化できない」と有罪判決を言い渡した。一方で「正当化」された、継ぎはぎだらけの民主主義の底は抜けていないか。

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