「もうやる以外ないな」
とはいえ、代理署名は日米安保体制の根幹を揺るがし、沖縄県にとっては国との全面対立に陥りかねない。県政の運営にとって、あまりに大きな負荷である。代理署名拒否の意思を固めつつも、そのリスクの大きさも危惧せざるを得ない大田にとって、決定的ともいえる場面となったのが、河野洋平外相との会談であった。
少女暴行事件を受け、対応を求めるために上京した大田に対し、河野は「県民の気持ちは心から共有したい。政府も重要な問題と受けとめている」と述べたものの、力点がおかれたのは「日米関係やアジア太平洋地域の平和安定に安保が果たす役割も広く考えねばならない。この問題で(日米地位協定の)見直しうんぬんを言うのは、議論が先走りすぎている」という牽制であった。
会談を終えた大田は、同行した県幹部に「もうやる以外ないな」と漏らした。日本政府に腰を据えた対応を求めるには、代理署名拒否に踏みこまざるを得ないと、大田は覚悟を決めることになった。
船橋洋一著の『同盟漂流』はこの場面について、「「あれ(河野の対応:筆者)がその後の抗議運動を激化させた」との見方はその後すっかり定着した」と記す。
そして河野の胸中について、「沖縄のレイプ事件が起こった時も、日米関係を傷つけないように全力を尽くすのが自分の仕事だと心に決めていた」。「外務省は地位協定問題が基地問題に転化することを最初から警戒していた。河野が「(外相を)辞めてもいいと思うくらい、体を張って頑張った」(山本忠通・外相秘書官)のもそれが基地問題、米軍駐留問題、日米安保体制問題へと波及するのを何とかして波打ち際で食い止めようとの思いからだった」とつづける(船橋洋一『同盟漂流』〔岩波書店、1997年〕336-337頁。343頁)。
「安保改定の国内圧力を生む」
「河野は地位協定を巡って日米が対立することを恐れていたが、実はもっと恐れていたのは地位協定の改定に向かうとそれが安保改定の国内圧力を生むのではないか、との点だった。ここは外務省事務当局の考えと一致していた」。ひとたび地位協定の本格的な見直しに手をつければ、それが日本国内において、日米安保や米軍駐留そのものをめぐる議論へと、際限なく膨らんでいきかねないという強い警戒感である。
そして、「地位協定の見直しを突きつけるようなことをすれば、米国は、米軍は「ウェルカム」されていないと見るだろう。それは駐留の行方に大きな影響を及ぼすことになる」(『同盟漂流』337頁)と、それが在日米軍撤退の可能性にまでつながりかねないことが憂慮されたと、同書は記す。
しかしながら、実際には当時の日本国内に安保改定や、米軍撤退要求といった気運がどれほどあったのか。検討すべき論点の一つであろう。
そして何よりも、大田が求めた「平和の配当」は、沖縄からの全米軍基地の撤収や日米安保体制そのものの否定といった「全面的」なものではなかった。大田は元来、革新系ではあったが、「日米安保が日本全体にとって必要なのであれば、その負担を沖縄だけが過重に背負うのはおかしい。せめて負担を軽減し、分かち合って欲しい」と訴えたのであり、それゆえに大田の訴えは、沖縄県内でも広範な支持を受けたのであろう。
沖縄の訴えに向き合って具体的な問題の改善につとめれば、事態は安定するのか。それとも要求は際限なく膨らんで、結局は全ての基地の撤去にまで突き進む「パンドラの箱」を開けることになるのか。