「普天間返還合意」とは、結局何だったのか③

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米ソ冷戦の終結によって、世界的に「平和の配当」が語られた。それは沖縄の過重な基地負担を削減するまたとない好機である。そう見定めた大田昌秀・沖縄県知事の前に立ち現れたのが、米軍10万人体制維持を打ち出した「ナイ・レポート」であった。一方で、自民党きってのリベラル派として知られた河野洋平外相は、沖縄からの抗議に対して、防波堤となる決意を固める。

 

「平和の配当」を求めた沖縄

 

米ソ冷戦の終結は沖縄にとって、米軍基地の大幅な削減を実現する上で、ようやく訪れたチャンスである。この好機を逃してはならない。そう考えた沖縄県知事・大田昌秀の前に立ち現れたのが、「ナイ・レポート」と呼ばれることになる米政府の報告書(『東アジア戦略報告』)であった。

冷戦終結とソ連消滅によって、アメリカはもはやアジア太平洋に膨大な軍事力を維持する必要を感じないのではないか。米軍撤退に関わるこのような同盟国の疑念を払拭すべく、ハーバード大学教授から国防次官補に転じていたジョセフ・ナイが主導して打ち出したのが、「ナイ・レポート」であり、そこでは今後も米軍がアジア太平洋で10万人体制を維持することが明記された。

10万人体制を明記した「ナイ・レポート」は大田にとって、基地縮小の好機という希望を打ち砕くものであった。10万人体制が維持されるのであれば、沖縄の米軍基地も現状維持が前提になりかねない。日本政府もこの現状維持の流れに乗りかねないと危惧した大田がとったのが、軍用地の契約更新到来に伴って日程に上っていた代理署名を拒否するという非常手段であった。

大田は知事就任から間もない1991年にも、やはり軍用地の継続使用に関わる公告・縦覧代行に直面し、このときは逡巡した末にこれに応じた。決め手となったのは、国防族の有力者として知られた元防衛庁長官・山崎拓の「対米関係もあるので、今回は、ぜひ公告・縦覧代行に応じてほしい。政府は今後、沖縄問題についてきちとん取り組むつもりだ」という説得であった。しかし、大田から見ればその後も政府は本腰を入れることなく、今度は「ナイ・レポート」で10万人体制という現状固定化の危機である。

大田が代理署名拒否に踏み切ったのは、1995年秋の少女暴行事件がきっかけだと記されることも多いが、それは誤りである。同年夏には大田はすでに当時の村山富市政権の中枢に対して、代理署名に応じられないことを伝えている。

当時、世界的に「平和の配当」が語られた。冷戦が終結して平和が訪れたことによって、冷戦に振り向けられていた人的、物的資源を、より生産的な方向に配分することができる。

「極東の要石」として冷戦中の米戦略を支える役回りを否応なしに担わされた沖縄からの「平和の配当」を求める切実な訴え。それが大田の代理署名拒否の意味であった。

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