「普天間返還合意」とは、結局何だったのか③

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すれ違う意図

 

昨今においても外務省を中心とした霞ヶ関界隈では、翁長県政の要求を聞き入れて普天間・辺野古問題で現行案を断念したならば、沖縄の要求は次々と拡大し、結局は嘉手納基地を含めたすべての基地の撤去要求に至るのだろうといった「不信感」を時折、耳にする。

一方で翁長知事は、自らが自民党出身であり、日米安保の重要性は十分に認識していると強調する。その種の「不信感」は、外務省と沖縄との接点が比較的希薄であることに起因するのかもしれない。

また、少女暴行事件が起きたのは、自社さ連立の村山政権下であった。社会党の閣僚が沖縄への同情に傾く中、自民党総裁でもあった河野には、自分が歯止め役にならなくてはという自負もあったという。

とはいえ、事件を受けて「日米関係を傷つけないように全力を尽くす」「何とかして波打ち際で食い止めよう」と決意した河野にとって、沖縄の訴えは「食い止める」べき荒波でしかなかったのだろうか。

河野は回顧録で、「事件の発生は94日であった。当初は、事件の性質や、これまでも同様の事件が多く発生していたためか、大きく報道されるようなことはなかった。大きな社会問題として大々的に報道されるようになったのは9月中旬になってから、とりわけ沖縄県議会が91日に抗議決議を全会一致で採択してからのことである」(河野洋平『日本外交への直言』〔岩波書店、2015年〕143頁)と当時を振り返るが、事件が与えた衝撃に対して、いささか鈍感であるとの印象を拭えない。それが大田に対する対応にも繋がったのであろうか。

河野は自民党を代表するリベラル派として知られており、米軍基地についても暴行事件発生前から、「地元負担が著しく大きいものなどについては、必要性やアメリカ側の意見なども勘案しながら整理することも考えていくべきではないかと思っていた」(『日本外交への直言』143頁)と回顧しているだけに、ここでの大田との「すれ違い」が一層、際立つのである。【以下、④につづく】

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