冷戦終結に伴う「平和の配当」を求めた沖縄県・大田昌秀知事は、政府の鈍い対応に危機感を抱き、代理署名拒否に踏み切る。これに対して「サプライズ」を伴って打ち出されたのが、日米両政府による普天間基地の返還合意であった。そこで未確定であった代替施設は変転を遂げて膨張し、受け入れを迫る政府側を前に、大田の苦悩は深まる。振り返ってみればこの間の経緯には、いささか奇妙な様相がつきまとう。
「サプライズ」の連続
大田にとって、少女暴行事件後の日本政府の対応は、沖縄の抗議と訴えから日米関係、そして日米安保体制をいかに守るかに重点がおかれた、硬直的なものと見えたであろう。その鈍重さを動かすには非常手段しかない。それが代理署名拒否に向けた大田の「もうやる以外ない」という呟きに込められた覚悟であった。
それが時の首相、橋本龍太郎とって苦境をもたらしたことについては、すでに論じた。そして局面を打開するために橋本が踏みこんだのが、劇的な普天間返還合意であった。世上では1996年2月の日米首脳会談において、橋本がクリントン大統領に対して決意の直談判に及んだことよってもたらされた快挙だと見なされているが、そこは注意深い再検証も必要であろう。
当時、米国防長官であったペリーはNHKの取材に対して、橋本が首相就任前の通産相であった時期に、朝鮮有事や沖縄基地問題についてペリーと濃密な意見交換をしていたこと、したがって日米首脳会談で橋本が普天間返還に言及した際も、「全く驚きませんでした。これは彼が首相になる以前からの大きな関心事でした」と語っている(『ETV特集 ペリーの告白』)。
この点についての検討は別の機会に譲るとして、普天間返還合意は大田にとって、まさに「サプライズ」であった。なにせ返還合意が急遽、発表される直前の通知である。「受けていただけますね」「喜んでいただけますね」と畳みかける橋本に対して、大田が「(協力といっても)できることと、できないことがあります」と、驚きとともに戸惑いや一抹の警戒感を抱いたのも無理はあるまい。
しばらくして、今度は代替施設が海上ヘリポートになるという案が示された際も、大田にとってはサプライズであった。なぜ、橋本はこれほどサプライズを多用したのであろうか。結論を言えば、「基地転がし」「新基地設置」との批判に転じかねない代替施設の確保をめぐって、サプライズの勢いによって大田を巻き込み、協力を取り付けようという戦略、あるいは苦肉の策。それが橋本にとっての「サプライズ戦法」だったということであろう。