「普天間返還合意」とは、結局何だったのか④

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沖縄の過重な基地負担という、日米安保体制を支えるという意味で本来、日本全国に関わる問題を国政の中心に押し出したことは、間違いなく大田の功績である。少女暴行事件を受けた沖縄の憤りが、その大田の決断を支えた。

一方で、大田が代理署名拒否という「非常手段」を持っていたがゆえに、政府・自民党も本格的な対応を迫られたという面も否めない(逆にいえば、その種の「非常手段」が失われたときに、政府はどこまで沖縄に向き合うのかという問いが残るのである)。

しかし、暴行事件への対応としては、おそらく「本筋」であろう日米地位協定については、その本格的再検討は早いうちに退けられた。『同盟漂流』などでは、それを持ち出せば、米軍の撤退に繋がる可能性もあったように当時の情勢が描写される。それを言われれば、日本側としては触れることのできない領域と見なさざるを得ない、と感じられることあろう。

 

下河辺淳の「率直さ」

 

そして世の関心も、電撃的な普天間返還合意によって一変し、その後は問題の焦点も代替施設の規模や場所へと移っていく。

しかし、なぜ少女暴行事件で噴出した沖縄の憤りへの対応策が、普天間基地の返還・移設へと結びつくのか。少し考えてみれば、いささか奇妙なことである。この点について橋本政権期に政権中枢と大田県政をつなぐパイプ役として活動した元国土庁長官、下河辺淳の語りは率直である。

「(普天間基地の)近代化のために移転することで、住民との関係で普天間を返してもらう運動に合意したなんていうことは一切ない」「(米兵が少女に)暴行したから、(普天間基地を)移転しますなんてことにはなんないですよ。補償とかお詫びはするかもしれないけどね」(「下河辺淳オーラルヒストリー」263頁。琉球大学学術リポジトリ)。

あまりに率直で脱力感にとらわれるが、それでは一体、「普天間返還合意」とは何だったのか。そして第三の当時者、アメリカから見ると、この問題、そして返還合意の「損得勘定」は、果たしてどのように見えるのであろうか。        【以下、⑤につづく】

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