「普天間返還合意」とは、結局何だったのか④

この記事の執筆者

 

大田の苦悩と退場

 

そして橋本によるサプライズの多用は、大田に苦悩をもたらすことになった。普天間基地の返還はもちろん歓迎だが、代替施設は規模などを含めて不透明である。果たしてそれは「返還」なのか、それとも沖縄県内における「基地転がし」に過ぎないのか。

しかも大田が戸惑う間に、代替施設は嘉手納基地への統合案から海上ヘリポート案へと変転する。その設置場所とされた名護市では住民投票が行われ、受け入れ拒否の結果が出た。そこで話は終わるかと思えば、直後に保守系の比嘉鉄也・名護市長は政府の説得もあって、海上ヘリポートの受け入れと、自らの辞職を表明する。シングル・イシューの住民投票と異なり、市長選挙なら自らの後継者に勝機があるという計算であった。

橋本政権はこの状況下で、大田にも海上ヘリポート基地受け入れの決断を迫った。元来革新系の大田であったが、政府には大田が受け入れを表明するのであれば、次の知事選には自民党も相乗りでという構想もあった。

しかし、大田は首相官邸で橋本首相はじめ政府首脳に囲まれる中にあっても、結局、説得に応じることはなかった。たとえ普天間返還の代償とはいえ、基地の「新設」について首肯することは、大田にとって越えられない一線だったということであろう。

これを受けた政府・自民党は、対抗馬に財界人の稲嶺恵一を擁立し、知事選で大田を追い落とすことに成功する。しかしその稲嶺も、受け入れの条件として掲げた埋め立て形式での「軍民共用空港」、かつ基地としては「15年の期限付き」という条件を、結局は一方的に政府から破棄されることになる。

 

なぜ暴行事件が基地移設に?

 

その間、大田が拒否した代理署名をめぐっては、19968月に最高裁で県の敗訴となった。他にも基地の継続使用に関わる公告・縦覧でも国と県の間で訴訟となっていたが、大田は最高裁での敗訴を機に、公告・縦覧に応じることを表明した。

橋本政権は基地の整理・縮小に加え、沖縄振興策を閣議決定することでこれに応じたが、沖縄県内ではこれを「取り引き」と見なして反発する声や無力感が広がり、大田の求心力も急速に衰えることになった。

その大田は、この時点で応諾に踏み切った理由として、米軍用地特措法を改正して知事から代理署名の権限そのものを取り上げる動きが本格化していたことを挙げている。だが結局、大田による応諾の一方で、特措法は衆参両院において9割前後という圧倒的多数で改正された。

以上の経緯を踏まえてみるならば、大田が踏み切った代理署名拒否という非常手段は、果たして何をもたらしたと言えるであろうか。

この記事の執筆者