コラム 穀雨南風③~広場の政治

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時に、本土と沖縄の違いを強く意識することがある。

政治学者の原武史さんと皇居前広場を歩きながら、そのことに思いを馳せた。
原さんによると、皇居前広場は世界一、大きいのだという。イギリスのトラファルガー広場より、ロシアの赤の広場より、中国の天安門広場よりも広いのだ。その皇居前を訪れたのは平日の午後、だだっ広い空間に人影はまばらだった。目に入るのは東南アジアからと思われる観光客くらいだった。足下には砂利が敷き詰められて、ひどく歩きにくい。

「ここは畏れ多い所なんだから用がすんだらさっさと立ち退け、みたいな空気が強く立ちこめているんじゃないかな」と原さんがつぶやく。

確かにベンチもなければ、売店も、自動販売機もない。せっかくの広場なのに、人が長くいることを歓迎する気配はない。
かつて皇居前広場はこうではなかったと、原さんは言う。

「戦後、初めてのメーデーが開かれたのが、皇居前広場だったんです。社会党や共産党、労働組合ですね。そういう人たちが集ってメーデーを、毎年5月にここでやるとか、あるいは食料メーデーとか、ほとんど毎月のようにそうした集会が開かれていたんです」

最初のメーデーの参加者は50万人。皇居前広場をそれだけの数の労働者が埋め尽くして賃上げ要求をする風景を、いま想像できるだろうか。
「GHQも許していた、ということですね」と私は尋ねた。
「GHQの大きな方針は民主化で、その民主化の定義を割と広くとっていたんですね。だから共産党も民主化勢力だと」

皇居前広場では、政治的な集会が頻繁に開かれたり、天皇制打倒を叫ぶ勢力がプラカードを掲げて集ったりと、自由で開かれた空間だった。そうした状況が5年ほど続いたあと、GHQは態度を一変させ、この場所での集会を禁止する。冷戦が進むにつれ、左翼思想の広がりを恐れたのだ。その後、日本が独立したあとも、皇居前広場で政治的な集会が開かれることはなく、余計はことをしてはいけないというタブーの空気ばかりが広がってしまう。

首都に巨大な広場があるのにそれがほとんど活用されない国家というのは、おそらく世界のどこにもないと、原さんは言う。もし戦後、皇居前広場でいったんは根付いた「広場の政治」が、そのまま続いていたとしたら、何かが変わったのだろうか。

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