2018年8月8日、沖縄県知事だった翁長雄志氏は、膵臓がんのため死去した。突然の現職知事の死は、地元沖縄だけでなく日本全国に大きな衝撃を与えた。
翁長氏は知事に就任してから亡くなるまで、その公約である普天間基地の辺野古移設反対を訴え続けるとともに、沖縄に過重な基地負担を負わせ続ける日米安保と日本の国のあり方に異議を唱え続けてきた。ここでは、翁長県知事の約四年間とは何だったのかを考えてみたい。
知事選勝利
2014年11月、翁長県政が誕生したこと自体が、沖縄の歴史の中で重要な意義があった。戦後沖縄では、長年にわたって日米安保や基地を容認しつつ経済振興を重視する保守勢力と基地に反対し人権や平和を重視する革新勢力が対立してきた。これに対し、当時那覇市長でもともと自民党政治家だった翁長氏は、沖縄県内で保守と革新の対立を乗り越えて辺野古移設に反対し、辺野古移設を進めようとする日本政府と対峙するという「オール沖縄」を旗印に、多くの県民の支持を得て当選したのである。
「イデオロギーよりアイデンティー」をスローガンに当選した翁長知事は、辺野古移設に反対するとともに、「日本の安全保障は日本全国で考えてほしい」と繰り返し、沖縄に過重な基地負担を負わせる日米安保の不公平さや普天間基地返還のために辺野古に新基地を建設する理不尽さを発信し続けた。沖縄の苦難の歴史を踏まえて日本政府や日本本土に訴えかける翁長氏の姿は、まさに「怒れる沖縄」の象徴であった。
しかし、今から振り返れば、その政治的ピークは、知事選勝利であったように思われる。知事当選当初、翁長氏は、かつて自民党政治家で日米安保も支持する自分が、圧倒的な沖縄県民の支持を背景に安倍政権と交渉すれば、妥協点を見出し、解決を導けると考えていたようである。ところが、翁長勝利についての沖縄での盛り上がりとは裏腹に、日米両政府の反応は冷淡だった。筆者は、翁長勝利の翌日、ある研究プロジェクトでワシントンDCを訪問し、米国政府機関の関係者ややシンクタンク・大学の研究者と意見交換をした。そこで沖縄についての話題が出た際、彼等は口をそろえて、翁長氏の勝利は辺野古移設計画に大きな影響を与えないと述べた。ある知日派研究者は、仮に沖縄で反対運動が高まって死者が出たとしても、1960年の安保闘争で死者が出ながらも日米安保条約改定が実現したように、辺野古移設は実現されるだろうとさえ発言し、筆者は衝撃を受けたことを記憶している。