「戦後沖縄」ともに体現~翁長後継・玉城デニー氏の覚悟

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急逝した翁長雄志知事から音声データで「後継指名」を受けた自由党幹事長の玉城デニー衆院議員(58)。「渦中の人」が9月30日投開票の沖縄県知事選の立候補表明を控え、インタビューに応じた。

「ハーフ」といじめられた

 

「家訓。いかなることがあろうとも、主たるもの月曜朝の可燃ゴミを忘れてはいけない」

知事選の有力候補として地元紙の一面トップに名前が踊った8月20日朝、玉城デニー氏がフェイスブックに書き込んだメッセージだ。

 国会議員になった後も、周囲からは親しみを込めて「デニーさん」と呼ばれることが多い。そんな異色の政治家らしい、「おとぼけ」ぶりだった。

「母子家庭で育ってきた人間は掃除も洗濯も自分の周りのことをやるのは苦になりません。この日も普段通り、慌てる必要も、浮かれる必要もないと」(玉城氏)

2002年の沖縄市議選でトップ当選し政界入りする前は、ロックバンドのボーカルや沖縄のラジオパーソナリティーなど、タレントとして沖縄のメディアで活躍していた玉城氏。今も、毎週土曜日の午後5時から地元のコミュニティFM局で音楽番組にレギュラー出演している。
「番組ではいっさい政治の話はしません。好きな音楽をかけて音楽の話をするだけです」
つらいとき、心の支えになったのはいつも音楽だった。

玉城氏が生まれたのは沖縄が米軍統治下だった1959年。米軍基地が集中する沖縄本島中部で育った。父親は、沖縄駐留の米軍人だった、ということしか分からない。玉城氏が物心つく前に、父親の写真や手紙は全て、母親が処分していた。父親のことを根掘り葉掘り尋ねたこともあったが、母親は「もう全部忘れた」としか答えてくれなかった。

母親が住み込みで働いていたため、1歳のとき、近隣の知人宅に預けられた。育ての母を「おっかあ」、実母を「アンマー」と呼んで育った玉城氏は、「この2人の母がいて、今の僕がある」と感謝を惜しまない。

育ての母は既に亡くなり、今年、三回忌を迎えた。実母は県内の老健施設に入所している。玉城氏は会ったことのない父親についてこう言う。

「一時期捜してみようかなとも思ったんですけど、今はまだそのタイミングではないと考え、捜すのをやめている状態です。親父が今も元気なら、よかったね、僕も元気だよ、と会って話をしたいとは思いますけどね」

子どもの頃は「ハーフ」という理由でいじめられた。
「もうそれはハーフとして生まれた者の宿命みたいなもの。ヤンキーの先輩からもいろいろいじられましたよ」(玉城氏)

母子家庭で育ち、貧困も経験した。小学生時代、コザ(沖縄市)の「トタン長屋」に実母と初めて一緒に暮らせるようになった。玉城氏はこの時期、70年12月の「コザ暴動」を目の当たりにする。
米兵車両による人身事故の処理に端を発して市民の反米感情が噴き出し、米国人の車両82台を炎上させたコザ暴動は、今も沖縄で語り継がれる現代史の断面だ。玉城氏は「ウチナーンチュの心のうちに閉じ込められた何かが爆発したように感じた」という。

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