バックボーンは市民
自分は何者なのか。どう自己規定するかで、人の生き方は大きく変わっていく。
稲嶺氏は沖縄県知事を2期つとめたとはいえ、本籍は「経済界」であり、仲井眞弘多前知事も通産省官僚と経済界という流れの先に政治が付け加わった。大田昌秀元知事にも「研究者」という本業があった。しかし翁長氏に帰る場所はない。政治家であるという強烈な自己規定が、彼の人生の軸を形作ってきたのだ。
沖縄で政治家として生きるということは、沖縄の歴史を背負い込むことでもある。父親が保守の政治家だったことも影響したのだろう、翁長氏も保守という立場をとった。「異民族支配のなかで、革新は人権の戦いをし、保守は生活の戦いをしていた」と翁長氏が言う沖縄の政治のなかで、彼は生活の戦いに身を投じる。中央政府を担う自民党に連なる政治家になったのだ。
そう思い定めると翁長氏は与えられた役割に徹する。自民党の県連幹事長として、革新の大田知事を議会で攻め立てる激しさは語り草になっているほどだ。さらに大田知事の3期目をはばんだ知事選での立ち居振る舞いは、すさまじい。国に先駆けて自民党と公明党が選挙協力する体制をつくったほか、国と対立しているから不況になったというイメージを広めるため「県政不況」というレッテルを貼ることで、大田知事を落選に追い込むのだ。それは大田氏が晩年まで苦々しい思い抜きには翁長氏について語れなかったほど、容赦ないものだった。
ところが那覇市長になるや、その振る舞いは一変する。
翁長氏は市を運営するにあたって「ノーサイド」とばかり、保守系だけでなく、革新系の幹部も重用する。革新に対して容赦ない攻撃をしていた時代からしたら、別人のようにすら見える。さらに冷戦を終わらせたソ連のゴルバチョフ書記長を沖縄に招へいして、イデオロギーの違いをどう乗り越えるのかを議論し、基地問題でアメリカ政府に直訴するためワシントンに行く稲嶺知事に志願して同行する。そればかりではない。自民党議員時代は辺野古移設を容認していた彼が、普天間基地の機能の一部を硫黄島に移せないかと画策するのだ。
どちらが本当の翁長氏なのか。
翁長氏はそのときの心境をこう語った。
「自民党も離党し、県連の(幹部としての)使命も終えた。私のバックボーンは市民だと思いました」
自民党の幹部というくびきから解放され、市長という仕事は保守、革新など関係なく市民全体の奉仕者だという思いを抱いたのだと本人は語る。さらに子どものころ「なんで自分が持ってきたわけでもない基地を挟んで、あいつは保守だ、革新だと罵りあうんだ」と感じていた疑問が、その思いのベースにあったという。その通りなのだろう。
しかし同時にあるのは、その時々で自分は誰を代表しているのか、その支持者たちに対して忠実なまでにその役割を果たそうとする職業政治家としての意識ではなかったか。その意味で自民党県連時代の翁長氏も、市長時代の翁長氏も、本人のなかでは一本の軸に貫かれた振る舞いだったのだろう。そうした翁長氏の姿勢はその後、よりはっきりしてくる。