コラム 穀雨南風⑤~全身政治家 翁長雄志

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県民のお父さん

 

当時の鳩山由紀夫首相の「最低でも県外」という発言が、沖縄を揺り動かす。この発言によって、多くの県民と同じように翁長氏もそれまでの「苦渋の選択」から解放される。革新だけでなく、保守の政治家たちも一斉に、辺野古移設反対に回ったのだ。こうした事態はそれまでないことだった。その流れのなかで沖縄に41ある全市町村が「普天間基地の県内移設断念」などを求めた建白書を政府に提出するのだが、安倍総理に代表して手渡したのは他でもない、那覇市長の翁長氏だった。

 

しかし仲井眞知事は態度をひるがえす。首相官邸で安倍総理らと会談し、多額の振興予算を確保できたとして記者団にこう述べた。

「これはいい正月になるなあというのが、私の実感です」

この言葉について翁長氏は、こう語った。

「沖縄ではですね、いい正月を迎えられるというのはですね、言葉遣いとしては2通りあるんですよ。例えば孫が生まれたとかでいい正月が迎えられる。ところがもうひとつの意味では、他人の犠牲の上に立ったもので自分が何かやったときに、たいへん屈辱的なものの場合にですね、一部の人がいい正月を迎えられるっていうときにも使うんですよ」

翁長氏は怒りというより、失望の色を顔に浮かべていた。

「いい正月という言葉には、お前ひとりだけいい正月を迎えられるとはどういうことなんだよと、そういうのがあるんですよ。これは県民の心のひだですから。これは仲井眞さんが、ご理解いただけなかったかというかまでは言えませんが、いずれにせよ、ああいう発言をしたってこと、そのものが沖縄の人もプライドをひどく傷つけられ、何百年という歴史を振り返っても、いたく心を傷つけられてね」

 

翁長氏は続けた。

「ある意味、知事というのは県民のお父さんですからね。なんかお父さんに見放されたようにね、そういった部分で(県民は)寂しさを感じたと思いますね」

態度をひるがえした仲井眞氏と、移設反対の立場を続けた翁長氏。仲井眞氏の県知事選で2度、選挙対策委員長を翁長氏がつとめるなど、ふたりの関係は良好だったはずだ。それにもかかわらず、最後の選択でふたりを分けたものは何だったのだろうか。

 

それはふたりの自己規定の違い、つまり政治家だったかどうかだと、私は思う。

民主党政権から自民党政権に戻ったのだから、もう辺野古移設を止めることはできない。それならば「苦渋の選択」をしていた前の立場に戻るのが現実的だ、たくさんの振興策をもらえるならば、それこそが沖縄のためだ。通産省の官僚から経済界に身を置いた仲井眞氏がそう考えたとしても、何ら不思議ではない。

 

ところが「沖縄県知事は県民の父親でなければならない」という心境の翁長氏は、県民の心のひだを無視することはできなかった。保守と革新がそろって反対に回ったのだ。県外移設を願った当時の県民たちの熱い思いに背を向けるという選択肢は、彼の中にはなかったのだ。たとえかつての仲間たちである自民党の国会議員と知事が、次々と政府に屈服するかのように態度を変えたとしても。

 

翁長氏が反対の立場を崩さなかったのは、そのほうが県知事になれると思ったからだ。そんな冷ややかな声も、自民党県連サイドから聞こえてくる。翁長氏は「私にお鉢が回ってきたんであれば、すべてを投げ打ってがんばっていこうと思った」と私に語ったが、もし知事になれるという打算があったとしても、それがどうしたというのだろう。県民に寄り添うという信念、「政治家は使い捨てられる」という諦念にも似た思い、そして打算も含めて翁長氏は全身政治家だったのだ。県民の中に飛び込んだ翁長氏には、その場所以外に帰るところはなかったのだ。

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