地続きの社会へのまなざし~境界を破る表現の力

この記事の執筆者

【おすすめ3点】

■沖縄ラプソディ(石戸諭、ニューズウィーク日本版226日号)

2月の県民投票を直前に控えた沖縄で、「賛否」を越えた声に耳を傾けた。

■辺野古バスに乗って(仲村渠ハツ、自費出版)

「文学賞に応募した落選集」を自らが「生きてきたあかし」として発刊

■基地社会・沖縄と「島ぐるみ」の運動(秋山道宏、八朔社)

日本復帰前の沖縄の「島ぐるみ」運動に託された想いと現実に迫る。

 

知らぬふりの「本土」

 

沖縄の人々は今、やりきれなさと疎外感に包まれているのではないか。

昨年9月の知事選は、「辺野古阻止」を掲げる玉城デニー知事が過去最高得票で当選。辺野古埋め立ての賛否が問われた今年2月の県民投票には、玉城知事の得票数を上回る「反対」が投じられた。421日の衆院沖縄3区補選でも「辺野古は現実的ではない」と訴えた候補が大勝した。

こうした沖縄の歴史的胎動すら「本土」が一過性の問題として扱えば、「なかったこと」にされかねない。県民投票後、玉城知事は安倍晋三首相と面談を重ね、辺野古の工事停止を繰り返し求めたが、工事は何ごともなかったように続いている。

沖縄からボールを投げられているのは政府であり、「本土」である。しかし、政府も「本土」も知らぬふりを続けている。この構図は深刻だが、「複雑」ではない。「本土」は沖縄に関して、都合の悪いことは無視しても日常をやり過ごせる。考えたくなければ考えなくて済む。それだけのことだ。ただ、それぞれの社会は別個に存在しているわけではない。

石戸諭は長編ルポ『沖縄ラプソディ』でこう記す。

「ある場所から1つの物差しで測れば『分断』しているように見える問題も、角度を変えて別の物差しで測れば地続きになっている」

これは沖縄内部の「複雑さ」だけでなく、沖縄と本土の「分断」を考える上でも示唆に富む。

石戸は、一方的に情報を聞き取る「取材者」の立場に踏みとどまらない。同時代を生きる伴走者として取材相手との接点を見出し、一緒に深層を掘る「共同探索者」として丁寧に言葉を編む。

沖縄の苦しみは沖縄の人にしか分からないのか。沖縄社会の内側と外側の視点は決して交わらないのか。答えはノーだ。そう言わんばかりに、石戸は地元紙記者のこんな言葉をそっと提示する。

「本質は単純ですよ。この島に基地が多過ぎる」

この記事の執筆者