県民投票の結果を国民的議論につなげる

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三択での実施について

 

なお、2018年の年末から2019年の年始にかけて沖縄市、宜野湾市、うるま市、宮古島市、石垣市の5市長が相次いで県民投票への不参加を表明し、一時、5市を合わせると有権者の約3割に当たる36万人が投票できないかもしれないという状況に直面した。

そこで、現実問題として、賛否の二択から「どちらでもない」を加えた三択に譲歩できるかという問題も生じた。代表の元山のハンストがきっかけとなり、公明党沖縄本部の代表でもある金城勉県議が三択で妥協点を探ったが、県政与党では、条例制定における手続的正当性に重きを置き、「正当性はこちら側にあり妥協する必要はない」「今後の衆議院補選や参議院選挙には2択の方が有利」などの理由で難色を示していた。
会では、時間的、技術的、法的制約などを踏まえた上での「3択で全市町村実施ができ全県民の投票権が確保できること」と「2択のままで5市36万人の投票権が奪われること」の比較に焦点を合わせ、そのメリット・デメリットの比較、それ以外の選択肢が現実としてあるのか否か、民主主義の根幹である投票権が奪われるかもしれない5市の市民の意見等を取り入れ、不完全ながらも県民投票の目的や社会的達成にとってどちらを現実的に選択すべきか(よりましか)という議論を行い、事実上三択を容認する声明を出した。結果、最後まで紆余曲折があったが「どちらでもない」を加えた三択で全市町村実施が実現した。
当初、会が三択を容認したことに対しては批判も多かった。もちろん条例制定における手続的正当性は二択だ。

しかし現実の世の中が「完全」ではないときに、「完全」を求めることにどれだけの意味があるのであろうか。
実際、琉球新報が行った宜野湾市民へのアンケートでは選択肢も含めて柔軟に対応すべきだという市民が、現行の二択のままでいいと答えた市民の2倍もいた。民主主義はその性質から、再検討を容認し、促進する。私たちは現実の状態と現実の不正義を取り除いた状態の比較により、不正義を取り除くことに合意できれば、不完全ながらも現実に直面する問題から一歩前進することができるのだ。

 

県民投票の教訓

 

ある記者は、今回の県民投票では三つの点で予想を裏切られたという。一つ目は県民投票の実施に向けた条例制定請求では、法定数を大幅に上回る10万以上の市民の署名が集まったこと。二つ目は県内全市町村で実施ができたこと。そして三つ目は、投票率が5割を超え、7割を超える県民が辺野古埋立てに反対の意思表示をしたということである。

この答えは、会の代表である元山仁士郎が考えたテーマ「話そう、基地のこと。決めよう、沖縄の未来」に体現されている。「話そう」とは、賛成でも反対でも「私はこう考える」という「個人の尊重」、「対立意見への傾聴」、そして「私たちが決める」という「参加」と「自己決定権」という民主主義の本質だからだ。
ところで沖縄自民は「やむを得ない」を選択肢に入れることに拘った。その理由は、「普天間基地の代替施設について、本土のどこも受け入れるところがなく、やむを得ないとの総合判断のもと、苦渋の選択で容認した」というものだった。

普天間基地所属の海兵隊について、沖縄駐留を正当化する軍事的理由や地政学的理由が根拠薄弱であることは多数の識者から指摘されており、日米元政府高官も軍事的には沖縄ではなく、他の場所でも良いと明言している。安倍首相をはじめ元防衛大臣らも本土の理解が得られないという政治的な理由で沖縄に決定したと明かしている。

沖縄自民は最終的に選択肢の「やむを得ない」を取り下げたが、その問いかけは、本質的な問題を突いている。それは、「軍事的理由ではなく本土の理解が得られない」という不合理な区分により、沖縄と本土に「自由の格差」があるということだ。

つまり、普天間・辺野古の問題の本質は「多数決の原理」と「少数者の権利」という民主主義の二つの原則を奪っていることなのだ。多数決の原理は、公共の課題に関する決断を下すための重要な手段だが、少数者の基本的な自由(権利)を取り上げることがあってはならない。私は沖縄の貧困の問題に取り組んでいるが、県民投票をすすめた最大の目的も同様に沖縄の人びとの自由の保障だ。

県民投票は、イデオロギーではなく、民主主義の問題として、明示的であろうが感覚的であろうが、県民一般のなかにあるその想いを発露させる環境を作ったからこそ、10万以上の署名が集まり、全市町村での実施ができ、県民のふたりに一人が投票所に足を運び、7割を超える県民が辺野古埋立てに反対の意思表示をしたといえるのではないか。

県民投票の意義と教訓をどう捉え、どう生かすのか。それが問われている。

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