玉城デニー知事は「一国二制度」という言葉を口にする。沖縄の将来像として、自治州のような一国二制度が望ましいという提案だ。
今年3月、『AERA』の渡辺豪記者のインタビューでもこう語っている。
「多くの県民が望むのは、政府から『これだけの財源と権限で沖縄の行政をしっかりやってください』と任される一国二制度です。沖縄の地理的優位を生かして、アジアに向けた日本の玄関口、日本の中のアジアのフロントランナーとしての位置づけを明確にしたい」
一国二制度といえば香港を思い出す。最近では民主的な体制がこのまま続くかどうかも危うくなってきている気配だけれど、本国である中国の体制とは一線を画す、高度な自治を与えられてきた。玉城知事が描く将来像は、かつての香港よりはもっと緩やかなものだろうが、少なくとも中央政府の縛りからの自由度を増すことを求めているのは間違いない。
私は玉城知事が将来「一国二制度」を望んでいると初めて耳にしたとき、合口を突きつけられたような気がした。それはこの国が、まったく逆の意味で、沖縄を事実上の「一国二制度」の下に置き続けてきたことを、厳しく問われたように感じたからだ。
戦後、日本が独立を果たしたあとも、沖縄は引き続き米軍統治下に置かれた。本土の人間が享受した新しい憲法も、沖縄の人々にとっては異国の出来事のようだったはずだ。27年の時をへて、1972年に返還されたあとも、沖縄には70%以上の米軍基地が集中し続けた。米兵による事件も絶えず、不平等条約である日米地位協定がもたらす苦痛と悲しみ、その多くを沖縄が引き受けることになった。
今も状況はほとんど変わらない。何度、選挙で意志表示しようとも、県民投票で声を上げようとも、中央政府はその声を聞こうとはしない。寄り添うという言葉が、むなしく宙を舞うばかりだ。まるで沖縄だけが日本の民主主義の枠外に置かれ続けているようでもある。
民主党政権で防衛大臣をつとめた森本敏氏が、米軍基地が沖縄に集中しているのは、軍事的な理由ではなく、他に受け入れる地域がないからだという趣旨の内容を離任会見で吐露したことはよく知られている。それはつまり、他の地域には拒否権がある一方で、沖縄には拒否権がないということにもなる。
こうして戦後をわずかに振り返るだけで、日本のなかでどれだけ沖縄が、もっと言えば沖縄だけが、別の道を歩むことを強いられてきたかがわかる。沖縄は逆の意味での「一国二制度」の下に置かれ続けてきたのだ。
言葉は不思議な力を持っている。
沖縄の人々が通り過ぎてきた時間を、私もそれなりに学び、感じてきたつもりだった。しかし「一国二制度」という言葉が、沖縄の置かれてきた厳しい状況をより鮮やかに映し出しているように思えたのだ。玉城知事が沖縄の「未来」を示す言葉として使った「一国二制度」が、私には逆に「過去」を照らし出す言葉として焼き付けられたと言ってもいい。
改めて思う。
この国はいつまで沖縄を「一国二制度」の下に置き続けるのだろうか。
【本稿はTBSキャスターの松原耕二さんが沖縄での経験や、本土で沖縄について考えたことを随時コラム形式で発信します】