ナショナリズム 沖縄と日本【中】~戦後に現れた「国体」日米安保

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瀬長次女内村さんと歩く

 米軍統治の頃、瀬長の自宅の雑貨店「瀬長商店」は那覇市楚辺にあり、すぐ隣が沖縄刑務所だった。1956年4月、出獄の扉から瀬長が現れ、待っていた群衆の歓声に右手を挙げて応えた。

 沖縄人民党に対する米軍の弾圧で書記長の瀬長は1年半も収監されていた。その間も、米軍基地建設のための土地収奪や、米兵が幼児を殺める「由美子ちゃん事件」といった暴力が続いていた。

 今は那覇地方検察庁や公園になっているその辺りを内村さんは歩きながら、「家をほっぽらかして……と、中学生までは両親への反抗もありました」と振り返った。

 出獄した瀬長はさっそく那覇市長に当選するが、翌年に米軍の圧力で追放されるという激動が続く。60年に沖縄県祖国復帰協議会が結成されてさらに多忙となり、瀬長の活動を支える妻フミも奔走した。内村さんは瀬長が収監された9歳の頃から、ひとりでよく雑貨店の番をした。両親が授業参観や運動会に両親が来た思い出はない。

沖縄の祖国復帰運動で演説する瀬長亀次郎の展示=那覇市内の「不屈館」所蔵

父の思いに気づいた「事件」

 そんな「ちーちゃん」が父の思いを受け止め、演説会場へ足を運ぶようになったきっかけは、自身が米軍による人権侵害を目の当たりにしたことだった。

 1963年2月28日、那覇市のいまの国道58号泉崎交差点で起きた「国場君事件」。市立上山中学校1年の国場秀夫君が米軍のトラックにひかれて亡くなった。信号無視をした運転手の米兵は「夕日がまぶしく信号が見えなかった」と供述し、米軍の軍法会議で無罪になった。

 内村さんは当時高校生で、上山中学校の卒業生だった。私と泉崎交差点を訪れると、行き交う車のそばで話した。「通学路で後輩にこんな事が起きるなんて、やっぱり沖縄はおかしい。それで両親はこんな活動をしてるんだと理解できました」

 那覇港そばの那覇市若狭にある瀬長の資料館「不屈館」へ行く。「亀次郎先生の生き様は、私も心から尊敬しておりました」という祝電が貼られている。6年前の開館時に翁長雄志が寄せたものだ。那覇市長として瀬長の後輩で、知事1期目の昨年、米軍基地問題の解決を日米両政府に迫りながら急逝した。

 遺品などが所狭しと並ぶ館内の一角で、1960年代後半の瀬長の日記を内村さんに見せてもらった。

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