ナショナリズム 沖縄と日本【中】~戦後に現れた「国体」日米安保

この記事の執筆者

ヤマ場の日米交渉

 なぜ1960年代後半か。その頃、首相の佐藤栄作が「民族の悲願」として沖縄返還を唱え、焦点の米軍基地の扱いをめぐる日米交渉がヤマ場を迎えていたからだ。「基地のない日本」を唱えてきた瀬長のスタンスはどうだったのか、確かめておきたかった。

 B5ノートに万年筆の文字が走る。67年10月、沖縄人民党の委員長となっていた瀬長がパスポートを持って11年ぶりに東京を訪れた際、本土メディアの取材を受けたというあたりの日記が興味深い。概要はこうだ。

 「記者は盛んに本土基地容認論を引き出そうとする。本土なみに基地を縮小し憲法が適用され施政権を返還するといっても反対するか。反対する。我々は日本人民の立場で考えている。基地つき返還論は支配者アメリカの立場から論じている。全土を核基地化し、アメリカの核の傘の下にいちだんと深くひきずりこもうとしている。即時無条件全面返還を勝ち取るよう、大国民運動を盛り上げる道を確保する」

 米国は朝鮮半島や台湾での有事を念頭に、沖縄の米軍基地の自由使用継続を望んだ。佐藤は「核抜き、本土なみ」を探った。沖縄は日本復帰後に「本土なみ」になるが、それは沖縄の米軍基地から核兵器を撤去する一方で、沖縄を日米安保条約と日米地位協定の下に置く。つまり米軍基地はそのままというのが「核抜き、本土なみ」だった。

 結局、72年の沖縄返還はその線で行われた。しかも佐藤は、有事には沖縄への核兵器再持ち込みを米国に認めるという密約を大統領ニクソンと交わしていた。

日記に警戒感あらわ

 先の瀬長の日記には、そんな日米の妥協を見透かすように警戒感があらわだ。「本土なみ」に沖縄の米軍基地が縮小されれば日本復帰に応じるのか、と楽観的に問う本土メディアの記者に対し、瀬長は対極の悲観的な立場から、「基地つき返還論」は核兵器が置かれる米軍基地を沖縄から本土へ広げることになるから反対だと答えている。

 沖縄が日本に復帰しても米軍基地はほとんど減らなかったが、そこに核兵器はもうない、ということになった。瀬長の悲観論の正しさは6割ほどだったか。いや、日本政府は有事の場合については米軍の核持ち込みを沖縄に限らず日本全体について今も否定しておらず、8割ぐらいかもしれない。

 ともあれ、瀬長は「民族の解放」をかけた祖国復帰運動で、沖縄だけでなく日本の米軍基地をなくそうという立場を貫いた。そして、そうした沖縄の声とかけ離れた形にも関わらず、時の首相は「民族の悲願」として沖縄返還に踏み切った。

 その溝を生んだのは、戦後日本で新憲法が戦争放棄を掲げた後に、米ソ両陣営による冷戦下で生まれた新たな「国体」の存在だった。

 日米安保体制だ。日本への攻撃に米国が日本とともに対処する一方で、極東の平和のために日本国内で米軍基地を提供するという関係は、54年の自衛隊発足と、60年の日米安保条約改定を経て鮮明になっていた。自国の統制下にない世界一の軍事力に国防を頼るという、主体性を欠くねじれた「国体」に、復帰した沖縄ははめ込まれた。

その「国体」は「吉田路線」とも言えるだろう。佐藤が師事した吉田茂が首相だった20年前、主権を回復した日本が復興に集中すべく極東の安全保障を米国に頼ろうと敷かれたのが「吉田路線」だ。それを「国外」から支えてきた沖縄の米軍基地は、沖縄の復帰によって日本に吸収された。

佐藤栄作との国会論争

 復帰を見越した沖縄での70年の衆院選で瀬長は当選し、国会でも弁舌をふるう。71年12月、日米沖縄返還協定をめぐる佐藤との論争で、沖縄が戻りたかった祖国と、戦後日本との溝があらわになった。

 瀬長は突きつける。

 「アメリカは生まれた国にお帰りなさい。それで対等に交渉できることを、民族の独立、平和日本、民主日本というのでしょう。我々はその実現のために戦ってきた」

 「(沖縄の)返還ではなく基地の維持が目的である。この協定は決して沖縄県民が26年間血の叫びで要求した返還協定ではない。日米沖縄軍事条約である」

 佐藤は譲らない。

 「私との瀬長君との間にはずいぶん隔たりもございます。一日も早く祖国に帰って、我々が(沖縄の)百万同胞とともに平和な沖縄県の建設に邁進すべきだ」

 「基地のない沖縄、かように言われましても、すぐにはできないことであります」

 72年5月、日本への復帰で「在日米軍基地が集中する沖縄」が生まれた。

<以下、【下】に続く>

※藤田さんは朝日新聞社の論考サイト「論座」で、連載「ナショナリズム 日本とは何か」を2019年4月から毎週木曜に掲載しています。この記事は、その「沖縄編」から6月27日、7月4日、11日の掲載分をまとめたものです 。

この記事の執筆者