南部へ避難
ある日の真夜中、防衛隊と出会った。沖縄には防衛隊と呼ばれた兵士がいた。沖縄で召集された地元の人たちで、当初は物資を運んだり、陣地の構築などをしていたが、アメリカ軍上陸後はまともな武器も持たされず、戦闘に駆り出された。
防衛隊は南部の方へ移動していた。ウトが「逃げるならどこがいい?」と尋ねた。防衛隊は
「南部の新垣へ行け。防衛隊も新垣へ行く」と言った。
新垣は、比嘉さん家族らが日本兵に追い出された壕から、南へ直線距離でおよそ7キロ。それを夜の暗闇の中を歩く。
新垣では、アメリカ軍の戦闘機に気付かれないように、大きなガジュマルの木に避難した住民全員で寄り添っていた。そこへ一人のおばあが来て言った。
「ここは危ないよ、照明弾を照らされて艦砲が飛んでくる。うちの裏の小さな防空壕に入らないか」
蒲三は、「命は一つだから助けてください」と言って、おばあの申し出を受けた。比嘉さん家族3人と、一緒に避難してきた親せきの二家族の合計9人が小さな細長い防空壕に入ることができた。
9人がようやく座れるぐらい狭く、一日中、体育座りのような恰好で過ごした。
「朝になると誰かが一人ずつ、つねって回るんです。『痛い』と反応すると『あぁ、生きてるね』と確認しました」