司法が認めた沖縄戦の実態④~慰霊の日 75年前の沖縄は戦場だった

この記事の執筆者

我が子を放って逃げる父親

ある日、防空壕に砲弾が飛んできて、比嘉さんとおじの宮城長太郎が大けがを負った。長太郎は「もう自分は死ぬんだ」と一日中泣いた。蒲三が「そんなに泣くと爆弾を落とされるから、近くの小屋に連れて行こう」と、おじを小屋に運んだ。

比嘉さんは、太ももに30センチくらいの破片が刺さっていた。しかし比嘉さんは何も言わずに耐えた。泣いて小屋に運ばれるのが怖かったのかもしれない。

ウトが気付き、蒲三に言うと、父は「寝かしておけ」と言った。そして「自分たちは逃げよう」と言った。比嘉さんはその時の言葉を記憶にとどめている。父親が我が子を放って逃げようと言う。

ウトは抵抗した。

「私が母親だからこの子をどこまでも守る」

比嘉さんは父のその時の言葉を思い返し、「戦争は恐ろしい。人間が人間でなくなり、親も子もなくしてしまう」と言った。

数日後、アメリカ兵がおじの長太郎が横たわる小屋に火をつけた。おじは焼死。

おじの子どもが泣きながら、比嘉さん家族や親せき家族がいる防空壕に入ってきた。それをアメリカ兵に気付かれたのか、アメリカ兵は防空壕に手榴弾を投げ入れた。手榴弾は爆発。

その時、ウトは毛布で比嘉さんを覆った。このため、比嘉さんは被害を免れたが、ウトは腕が折れ手と腕は皮一枚でつながっている状態になるが、なんとか一命はとりとめた。

蒲三は頭に穴が開いて即死した。親せきの山川のおじとおばは娘を抱いて一緒に逃げたが、3人ともアメリカ兵に撃たれて死亡した。

この山川家は長女の幸子さんだけが生き残った。亡くなったのは二女の恵子。恵子は1944年7月ごろに生まれ、当時まだ1歳にもなっていない。恵子の名前は戸籍にはない。理由は不明だが、生まれたころは戦時体制にはいってからだと思われる。生き残った幸子さんは「妹がこの世に生まれた証しとして戸籍に載せてやりたい」と話している。

その後生き延びた比嘉さん。

比嘉さんの左の胸には防空壕で受けた砲弾の破片の断片が残っている。胸以外に10か所もの傷跡が残る。身体だけではない、精神的な被害も受けている。81歳になった比嘉さんは夜中に覚醒することが多く、目覚めた時に動悸しているという。

「夜に目覚めた時、戦場で火薬が爆発した時の音や匂いを思い出します。昼でも爆弾の音が自分に入ってきます。花火の音は、弾がバンバンするように聞こえ、怖くて、花火を見ることができません。火薬のにおいが鼻に蘇ってきます」

不眠、物音に対する過敏などが認められ、沖縄戦体験による戦争PTSDと診断されている。

日本兵に「おまえらの首は1銭5厘だ」と壕から追い出された。日本兵による壕追い出しがなければ、比嘉さんやその家族、親せき家族はみんな生きていたはずだと比嘉さんは言う。

壕を追い出された被害者は、戦後制定された援護法によって、日本軍に壕を提供した「戦闘参加者」として、援護法の適用対象となった。比嘉さんは1990年ごろ、那覇市に援護法の申請をするが、申請手続きは受け付けていないと言われ、拒否された。拒否の具体的な説明がなく、「窓口の対応はとても居丈高だった」と話している。

比嘉さんは陳述書に次の様に書いている。

「日本以外の国に民間人の戦争被害者への援助があるのに、日本は謝罪も補償もないのは不思議でならない」。

1945年6月23日、沖縄での日本軍による組織的な戦闘行動が終わる。地上戦の無かった本土の「終戦」は8月15日だが、沖縄の「終戦」はその2か月前だ。

【本稿は『InFact』からの転載です】

この記事の執筆者