言葉を武器にするために―「土砂採取問題」を巡る語りの検証

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「言葉が与えられ、見えにくかった問題が浮き彫りになることがある」

4月19日付の朝日新聞・「天声人語」で見つけた言葉だ。この一文を見たとき、私は言葉と社会運動との関係について、緊急に考えるべきだとの思いに駆られた。私たち人間は、言葉を介して社会を見ている。逆に言えば、社会の見え方は言葉で決まる。

前回の記事でも書いたとおり、この問題は日本社会の構造に関わる問題だ。社会の構造を掴み、それを対象化し、問題の根本を射貫く戦いは、長期戦になる。言葉はそのための武器だ。だからこそ、私たちには、その長期戦を戦い抜くための、揺るぎない言葉が必要だ。

本稿では、沖縄島南部からの土砂採取問題、また沖縄一般を取り巻く言葉を見つめ直し、検証してみたい。

「土砂採取問題」が問題として語られないまま放置されている現状が悔しい。

まず、「土砂採取問題」というフレーズ自体、日本全体で共有されているだろうか?冒頭で引用した「天声人語」が指摘するとおり、端的で印象的なフレーズが共有されることで、複雑な社会問題の認知度が一気に上がることがある。「原発汚染水問題」「ジェンダー問題」「ヘイトスピーチ問題」など、問題に名前を与えることが、その問題への社会的関心を強め、その短い名前に濃縮された様々な事象に関する知識を普及させるという例も少なくない。「トリチウム」「LGBTQ」「エスニックマイノリティ」など、少し前まで専門用語の範疇で留まっていたのに、ここ最近になって急速に市民権を得た言葉は多いはずだ。

では「土砂採取問題」は、それと同じようなフレーズとして浸透しているだろうか?少なくとも、私はそのような実感を持てない。「辺野古新基地建設問題」は、ようやく市民権を得始めたかもしれない。しかし、今回の「土砂採取問題」に関する認知度の低さは深刻だ。先日、所謂「市民派」「リベラル」の地方議員・市民団体関係者の方々の集会に招かれたが、私が「今、沖縄島南部の土砂採取問題について活動しています」と自己紹介しても、ぽかんとした顔を返されるだけだった。

挙げ句の果てに、「基地や安全保障は国の問題だし、市民の生活からは遠い」とまで言い放たれた。ハンガーストライキでこの問題に命懸けの問題提起を行った遺骨収集ボランティア・具志堅隆松氏は、この問題は「基地に賛成とか反対とか以前の、人道上の問題」だと言い続けているのに、そもそも具志堅氏の存在も、そのご発言も殆ど知られていない。まして、「戦跡国定公園」「自然公園法」「鉱業権」「戦没者遺骨収集推進法」など、「土砂採取問題」の背後に潜む様々な専門用語に対する認知など、皆無に近いだろう。

現在、この問題は負の循環に陥っている。「土砂採取問題」が、日本全体で共有されたフレーズになっていない。こうした無知・無関心が報道の寡少を呼ぶ。結果、「土砂採取問題」は、いつまでたっても「市民の共通語」への仲間入りを果たせず、市民の無知・無関心は強化され、報道に「この問題を報じよ」との圧力が掛かることもない。その間に権力側は、沖縄に対する分断政策を粛々と実行する。

そもそも、この問題が問題として語られていない以上、沖縄島南部から土砂を採取することは、社会問題になってすらいない。日本社会の認知の上では、沖縄島南部からの土砂採取は、単なる「開発事業の一つ」の域を出ていないと言わざるを得ないのかも知れない。問題として認知されない限り、それが解決されることなどあり得ない。

コロナ禍の一年、言葉を与えられたことで、社会に実質的な変化が起きた例を、私たちは何度も見てきたはずだ。特別定額給付金は一律給付になり、検察庁法改正は見送られた。パートナーシップ制度を導入する自治体が増え、同性婚を認めないのは違憲と判断された。勿論、この程度の変化で満足するわけにはいかないが、少なくとも草の根の民主主義の実践が広がったこと、「市民が声を上げれば何かが起きる」という経験を共有できたことは、大事な一歩だと思う。

だからこそ、「土砂採取問題」が問題として語られないまま放置されている現状が悔しい。市民もメディアも、性差別・人種差別・コロナ対応・汚職問題などと同じくらいの「言葉の力」を「土砂採取問題」に与えていれば、政府もここまで一方的に非人道的な蛮行を進めるわけにはいかなかったはずだ。今からでも遅くない。この記事を読んでいる市民の皆様には、家族・地域・SNSでこの問題のことを話し、報道の充実を促して頂きたい。メディア関係者の方であれば、今すぐこの問題を報じて欲しい。言葉の力で、無知・無関心の悪循環を断ち切らなければならない。

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