言葉を武器にするために―「土砂採取問題」を巡る語りの検証

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「沖縄問題」という言葉の有害性

ただし、言葉が武器にも凶器にもなることには注意すべきだ。ワンフレーズポリティクスは諸刃の刃。適切な言葉で問題を捉えなければ、撃つべき相手を撃てなくなる。言葉が広まれば良い、という訳ではない。「その言葉がどのように語られているか?」「その言葉を語ることが、そこに濃縮されている複雑な社会問題に対する検討に繋がっているか?」と、常に監視の目を光らせるべきだ。

「土砂採取問題」という言い方にも危うさがある。というのは、土砂採取をするのが国の認可を受けた沖縄県内の業者であり、沖縄県知事がその業者の開発事業に中止を命令するかどうかが争点である以上、「沖縄県が沖縄の業者の営業を不当に妨害している」問題として切り取られてしまうからだ。

さらに、土砂採取問題とはいえ、そこで問われているのは「土砂を採取するかどうか」だけではなく、日本全体の戦後処理・戦争体験継承・人権意識・民主主義に関わる問題である(その理由はこちらの記事を参照)。「土砂採取」だけに議論を限定すると、そこに結びついてくる多くの問題が切り落とされるし、「開発のための土砂採取は沖縄でなくても、どこでもやっているだろう」という暴論も跳ね返ってくる(特に沖縄島南部からの土砂採取が問題になる理由の一つは、前回の記事で指摘したつもりだ)。

ワンフレーズポリティクスは、あくまで問題を認知し、関心を寄せるための入口に過ぎない。そのフレーズの背後に、どれほどの事象・問題が濃縮されているか、常に思考を巡らす労力を怠ると、足下をすくわれる。

最悪の場合、言葉自体が人を殺める凶器になることもある。「鬼畜米英」という言葉が流布されたから、沖縄戦中、沖縄住民は投降することが出来なかった。「ユダヤ人問題」という言葉が創出されたから、ホロコーストが正当化された。自分たちが使う言葉に緊張感を持って対峙しなければ、人命を犠牲にする結果すら生みかねないのである。

「沖縄問題」という言葉は特に有害だ。基地の集中・貧困・環境破壊など、沖縄を苛む問題は多い。しかし、それらは沖縄が作り出した問題ではない。全て、沖縄の犠牲を前提に成立している日本社会の構造に関わる問題である。まるで沖縄が問題を作り出しているかのような印象を与える「沖縄問題」という言い方は、問題の本来の加害者を見えなくし、被害者に責任転嫁する。

権力側は、言葉の持つ暴力性をよく知っているし、民衆を分断・抑圧するために言葉の力を利用してくる。まるで沖縄振興と基地負担とが当然不可分であるかのように演出する河野太郎氏の「ひっくるめ論」の例を見れば判るだろう。

アカデミアやジャーナリズムの世界にいる人間は、特に言葉の乱用に目を光らせる職責を負うべきである。しかし、最近はその職責を放棄するばかりか、凶器としての言葉の流布を強める人まで出て来ているので、本当に恐ろしい。「自分を愛せないウチナーンチュ」などと放言しておいて、何故沖縄だけ取りたてて自分を愛せない状態になっているのか分析しようとしない樋口耕太郎氏の『沖縄から貧困がなくならない本当の理由』などは、被抑圧者・マイノリティに対する犠牲を正当化する凶器として、しっかり批判されるべきである。

なお、樋口氏の著書については、平良竜次氏がTwitterで行った一連の批判が正鵠を得ていると思うが、筆者の知人のウチナーンチュの方々も一定数樋口氏の著書に感銘を受けていたのには衝撃を受けた。直接人命や人の尊厳を犠牲にすることはせず、むしろ被抑圧者・マイノリティに分断を強いる形で、間接的に犠牲のシステムを温存させる言葉の使われ方にも注意が必要だ。

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