言葉を武器にするために―「土砂採取問題」を巡る語りの検証

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「当事者である」と「当事者意識を持つ」との違い

ウチナーンチュは「沖縄問題は日本の問題」と言い続けてきた。「沖縄問題」として日本社会で語られている(または、日本社会が意図的にそう語っている)問題は、「日本が沖縄に犠牲を押しつけている」という問題だ。その点で、日本、そしてその中のマジョリティであるヤマトンチュが、「加害者」としての当事者意識を引き受けるべきだ。沖縄からの問題提起の声は、沖縄の犠牲を正当化する言葉への対抗言説であり、問題の「語り直し」の要求であるのである。

なお、この「当事者」という言葉も一筋縄ではいかない。筆者の友人のウチナーンチュは、ヤマトの大学生と話す際、「問題の加害者としての当事者性」という概念を理解させるのに苦戦している。ヤマトの学生とその概念について議論しようとすると、「自分は沖縄に寄り添うべく努力しているのに、加害者扱いされても困る」というような「逆ギレ」をされるというのだ。

ここで起きているのは、個人のアイデンティティの問題と、社会構造の中で個人が置かれたポジショナリティの問題との混同である。野村浩也氏の『無意識の植民地主義』によれば、ポジショナリティは「政治的権力的位置」である。つまり、自分が社会の力関係の中で、どのような場所を占めているかの問題であって、個人としてその場所でどのような意識・発言・行動をするかとは、直接関わりのない問題である。

例えば、大阪で暮らす筆者は、自分が政権を支持するかどうかなどに関わりなく、「沖縄に基地が押しつけられており、地元には基地がない結果、沖縄への基地集中の恩恵を受けてしまっている」というポジショナリティを占めている。そのポジショナリティは社会の構造によって決められているし、自分がそんなポジショナリティにいることが承服できないからこそ、私は日本社会の構造を変えようと意識・発言・行動する。

そうする中で、「構造的沖縄差別に反対する者」としてのアイデンティティを獲得するが、それは決して「構造的沖縄差別の恩恵を受けてしまっている」というポジショナリティから解放されることを意味しない。

筆者の友人のウチナーンチュとヤマトの大学生との会話を眺めていて、どうもこのあたりの区別が不明瞭だから、実は議論が成立していないのではないか、と感じた。「問題」「当事者」などと簡単に語るが、そうした一つ一つの言葉をどういう意味で使っているかに敏感にならなければ、今後の社会運動が無駄な内部分裂を起こすことに繋がりかねない。

ちなみに、私の友人は「長い時間がかかるよね、当事者になるには」と漏らしていたが、「当事者である」と「当事者意識を持つ」との違いも認知されねばならないだろう。「当事者」がポジショナリティに関わる概念であり、人間誰もが社会の中で暮らしていて、自分の社会の構造の中で一定の場所を占める以上、あらゆる社会問題に対して各人は「当事者」である。問題なのは、「どのような当事者なのか?」であり、特に「自分は社会の力関係の中で力を持っている側なのか?」「力を持っている側だとすれば、その力をどのように使っているのか?」「その力の使い方は、人道に反していないか?」といった点が問われるべきなのである。

このような問いかけに向き合う中で、「当事者意識」が育まれる。要は、社会の中で生きていく以上、「当事者意識を持つには長い時間が掛かる」とは言えても、「当事者になる」というのはあり得ない(既に「当事者である」のだから)。

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