言葉を武器にするために―「土砂採取問題」を巡る語りの検証

この記事の執筆者

沖縄に不当な犠牲を押しつける日本社会に対する「語り直し」「扱い直し」の要求

話がややこしくなってしまった。具志堅隆松氏はずっと、この問題は「人道上の問題」だと言っている。それならば、社会構造・力関係などを考えずに、ただ「人として間違ったことはしてはいけない」とだけ言っていれば良いのではないか。そんな疑念を持つ方もいらっしゃるだろう。

しかし、この「人道上の問題」も、悪意を持って使えば凶器として働く言葉なので、ポジショナリティの概念をきちんと理論化しておきたかった。

というのも、「人道上の問題」という表現を悪用すると、ウチナーンチュの方々が自らの歴史・記憶・精神文化・アイデンティティに基づいた、「ウチナーンチュとしての問題提起」を行うのを封じ込めてしまうからだ。

各人が、自分の考えと、自分が属する文化圏との交渉の中で、固有の社会生活を営むこと、そして互いにそのような営みが出来るよう尊重し合うことこそ「人道」であるはずだ。

しかし、権力側はそうしたアイデンティティを抑圧するための暴力的な一般論を正当化するために、「人道上」「人として」と言った言葉を使うことがある。最悪の場合、「沖縄がずっと日本の犠牲にされてきた」という沖縄固有の歴史も、「遺骨を神様として扱う」という沖縄固有の精神文化も全て無視し、「どこの土だって遺骨が混じる可能性があるのだから」「ヤマトンチュだって地元の土砂が採取されるのを認めているのだから」といった、一億総受忍論的な暴論を振りかざすことになりかねない。

昨年日本でも大きな話題となったBlack Lives Matter (BLM)運動を封じ込めようとする白人至上主義者らが、「All Lives Matter (全ての命が大切)」というスローガンを持ち出し、普遍的人道主義の仮面を着た人種差別を展開したことを思い出そう。BLM運動が真の普遍的人道主義と矛盾しないのは、その運動が、肌の色の違い故に不当に犠牲を押しつけられたアフリカ系の人々が持つ固有の経験に基づきつつ、「これまで自分たちが味わわされてきた困苦は、人の道に反するのだ」「だから、肌の色を理由に自分たちを対等な人間として扱わない社会の構造を改めて欲しい」という訴えだからだ。つまり、「肌の色の差を、社会における力の差と結びつけないでくれ」という、「語り直し」「扱い直し」の要求である限り、BLM運動と普遍的人道主義とは矛盾しないのである。

ウチナーンチュの方々が、ウチナーンチュとしてのアイデンティティを前面に出した訴え・運動をする時も、それが沖縄に不当な犠牲を押しつける日本社会に対する「語り直し」「扱い直し」の要求である限り、普遍的人道主義とは矛盾しない。アイデンティティとポジショナリティの違いといった概念に未だ不慣れな私たちは、人を対等に扱う言説と、人に同化を強いる言説とは、正反対なのだということを肝に銘じて、今後の言論・運動を作っていくべきだろう。

具志堅氏の問題提起を受けて始まった運動も、多様な人を巻き込んだ、長期戦になっていくだろう。だからこそ、具志堅氏が「人道上の問題」と言っているのはどういう意味なのか、今一度しっかりした共通認識を固めるべきではないだろうか。

ここまで「言葉が大事だ」と論じてきたが、こうして文章を練っている間にも、土砂採取問題は着々と進行しているという現実がある。議論や言論分析を自己目的化してはならないし、具体的な行動から逃げてはいけない。言葉遊びに甘んじがちな自分への戒めを込め、個人が出来る行動を今すぐすることの重要性を強調して、この論考の結びとしたい。

遺骨で基地を作るな!緊急アクション!」は継続中だ。遺骨に宿る魂と、遺骨に関わる問題を語る言葉の言霊を、両方大切にして、これからの運動に関わりたい。

この記事の執筆者