日本の立憲主義・民主主義を蘇生する!―「重要土地等調査規制法案」の衆議院本会議通過を受けて

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前田・飯島の前掲書によれば、60年安保の時は、強行採決に至るまで、39回・153時間に渡る日米安全保障条約等特別委員会での議論があった。2001年のテロ特措法成立・自衛隊法改正の際も、国家機密法を火事場泥棒的に成立させたという大問題を孕みつつ、合計60時間の審議時間が確保された。歴代首相は小泉純一郎氏に至るまで、「とにかく憲法の枠には収めないといけない」との意識くらいは持って答弁を練ってきていたように見える。それに比べれば、「重要土地等調査規制法案」成立の過程は、質的に異常だ。

民主主義的な市民運動の地盤が壊された今、私たちはどう生きていけば良いのだろう。

まずは、現在の日本社会の危うさを、それを生み出した自分たち側の意識の問題も含めて認めなければならない。

デジタル改革関連法が成立し、デジタル庁が9月1日に発足するので、市民の個人情報を一括集約し、生活を監視する体制は着々と整備されることになる。神戸市のように、既に防衛省と「募集対象者情報の提供に関する覚書」を締結し、自衛隊に対する市民の個人情報の提供を始めた自治体もあるというから、私たちの生活空間は「既に」権力者の監視下にあることを意識すべきだ。

ワクチン接種などを通し、権力者側に個人情報を自ら渡すことへの抵抗感が弱まっているからこそ、自分のプライバシー権への意識を高めたい。

特に、ワクチン接種を通じ、住民の生活領域にまで入り込んできた自衛隊への警戒心は最大化しておくべきだろう。

ちなみに、陸上自衛隊沖縄戦史研究調査団は「沖縄作戦の総合的教訓」(1961年3月)において、「国土作戦は国土を戦場とし、国民と不即不離の関係において行われる。(中略) 国民の生命財産の保護、生計の確保等に基く制ちう(ママ)、住民の行動より受ける妨害等、更に作戦の様相が惨烈を加えるにしたがい国土の荒廃及び国民の苦難は極度に達し、きわめて困難な状況になることを予想し適切な民事に関する施策を行なうとともに堅確な決意のもとに作戦を遂行しなければならない」と書いている。

ワクチン接種と地上戦を同一視するわけにはいかないが、自衛隊が地上戦への訓練の一環としてワクチン接種に乗り込んできた可能性はあると思う。住民を潜在的なスパイと見做し、作戦協力を強いてくる存在として、自衛隊を批判的に見る目線を失う訳にはいかない。

また、今一度、社会契約論に基づく立憲主義・民主主義の原則に立ち返りたい。権力は暴走しうる。だから、国民主権を実践する市民によって、民主主義的に統制されねばならない。本来監視されるべきは権力側である。

優先されるべきは、市民一人一人の人権であり、国家に対する国民の義務ではない。人権侵害をする権力なら、それに従う義務はないのである。

国はナショナリズムを押しつけ、国への奉仕を美化してくるだろうから、「今の国は私たちの人権を侵害し、命を奪おうとしている」ということを決して忘れてはならない。ワクチン接種に動員される医師・看護師、オリンピックに協力するアスリートたち、また将来「重要土地」を国の安全保障のために差し出す地権者を利用して殉国美談を仕立て上げる、国の印象操作に欺されてはならない。

事実、昨年5月29日には、「医療従事者に感謝を示す」目的で、ブルーインパルスが都心上空を飛行した。しかし、本当に医療従事者に感謝しているなら、国がすべきは責任を持ったコロナ対応である。コロナ感染の拡大も、医療現場の疲弊も、国の無策が作り出した「人災」としての面が大きい。その中で犠牲になった方々を「殉国者」「国家への奉仕者」のように持ち上げてしまうことで、国の責任を見えなくするのは危険だ。

立憲主義・民主主義の法的土台が崩されたとはいえ、まだ市民による非暴力の抵抗は可能だ。法案廃案を求める署名も立ち上がったし、まだ抵抗の声を上げ続けられる。

コロナでただでさえ市民の連帯が難しくなったのに、お互いを密告することを強いる法案まで衆議院を通過したから、市民運動はかなり追い詰められている。だからこそ、非暴力の抵抗でつながり続けることが不可欠だ。市民同士がスパイ視し合ったことで、十万人を超える沖縄住民の犠牲が生じたという、沖縄戦の教訓を思い出したい。

国が非民主的だからといって、こちらが暴徒化してもいけない。追い込まれ、先鋭化した「運動家」集団が、日本赤軍のように暴徒化し、大衆から孤立したことも、市民主導の民主主義の実践が根付かなかった一因だと思う。政治の犠牲に苦しむ弱者の連帯による非暴力の抵抗を、最後まで貫きたい。

何度も述べてきたことだが、地域をベースにした「草の根の民主主義」の実践は、本当に重要だと思う。前田・飯島の前掲書には、地方自治は「民主主義の学校」であり、「平和主義の観点からも、地方自治の権限を強化することは中央政府の独善的な戦争遂行を阻止することになる」と書かれていた。

1975年以降、神戸市は非核証明を提出しない外国軍艦の入港を認めない「非核神戸方式」を取り、政府の一元的な軍事化に対抗してきた。地方自治体単位で、市民・行政・地方議員が一体となった運動体を育て、腐敗した中央に立ち向かっていくことが肝要だろう。

沖縄慰霊の日のある6月は、沖縄では「平和月間」。「重要土地等調査規制法案」は、平和教育の現場すら脅かしてくるが、戦争体験者の方が減る今だからこそ、戦跡などの現場における平和教育の価値を主張し続けたい。

遺骨収集ボランティアの具志堅さんも、遺骨収集現場を平和教育の場に活用することを提案していた。国の犠牲にされるとはどういうことか、その暴力性と空しさを実感するためにも、現場での体験に基づく平和教育は大切だろう。

このような実践が根付いている限り、戦死を殉国死として美化するナショナリズムは広がらない。国にとってそれが不都合だからこそ、遺骨収集を不可能にする土砂採取計画や法案を押しつけてくるのだ。そんな横暴に負けず、平和教育の営みが続くことを心から願う。

加えて、一方的に国の犠牲にされた住民の話だけでなく、あれほどの戦禍を耐え抜き、時流に抵抗した人の体験を継承することも必要だと考える。凄惨な地上戦の中で抵抗を貫いた人の歩みを学べば、現在の国にどう対峙すべきかの教訓を引き出せると思う。

最後に、今年は衆議院総選挙もある。どの議員が今回の法案に賛成し、立憲主義・民主主義を殺したか、しっかりと記憶し、立憲主義・民主主義の再生の担い手を選び直したい。次の総選挙は、「戦時に入った日本社会の作り直し」の選挙と捉えたい。

戦後すぐ文部省が発行した中学一年生の教科書「あたらしい憲法のはなし」の民主主義の項には、「ひとりの意見が、正しくすぐれていて、おゝぜいの意見がまちがっておとっていることもあります。しかし、そのはんたいのことがもっと多いでしょう。そこで、まずみんなが十分にじぶんの考えをはなしあったあとで、おゝぜいの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがないということになります」と書かれている。

強行採決は民主主義の正反対だ。新たな日本社会を作る選挙なのだから、この教科書に書かれたことくらいは守れる候補を選びたい。

立憲主義・民主主義は瀕死状態だ。しかし、蘇生手段はまだある。自分も現状に絶望せず、短期的・長期的に出来ることに邁進したい。

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