沖縄の「戦場化」と国民保護法

この記事の執筆者

国民保護法とは何か 

近年の軍事力の飛躍的な高度化と破壊力を考えるならば、仮に「戦場」となった場合、沖縄県民が被る被害は想像を越え、膨大な犠牲者がでるであろう。こうした最悪の事態さえ想定されるとき、改めて着目されるべきは、2004年に成立した国民保護法である。この法律は、国家間紛争を踏まえた「武力攻撃事態」、その前段階として事態が緊迫化し武力攻撃が予測される「武力攻撃予測事態」、主に大規模テロを想定した「緊急対処事態」という3つの事態を対象として、これらの事態から「国民の生命、身体および財産」を保護するために制定された。要するに、国際人道法における紛争下での「文民保護」を日本で実現するための法律である。

具体的には、警報の発令や避難の指示、住民避難など11項目の保護措置が整理され、翌05年の「国民の保護に関する基本指針」において詳細が定められた。これに基づいて全国の自治体で国民保護計画が制定され、毎年十数回に及ぶ国民保護訓練が各地で実施されている。現に本年5月19日にも「全国瞬時警報システム(Jアラート)の情報伝達試験」が全国一斉に実施された。

とはいえ、防衛大学の先端学術機構が2018年にまとめた「国民保護をめぐる課題と対策」と題する研究レポート(武田康裕編)では、繰り返されてきた訓練について、「ワンパターンを重ねてきた」「意味のある訓練はリアリティを感じ取れることである」といった問題点が指摘されている。この「リアリティの欠如」の問題を筆者(豊下)なりに敷衍するならば、5月19日に実施された全国一斉の訓練にも象徴的に示されていると言えよう。

なぜなら、そこでは訓練にあたっての想定として、武力攻撃事態等への対処の重要性を踏まえたうえで北朝鮮問題に言及され、「弾道ミサイルが落下する可能性がある場合の対応」が挙げられているからである。つまり、北朝鮮が発射するミサイルの落下が差し迫った脅威である、との認識で訓練が行われているのである。そうであれば、直ちに浮かぶ根本的な疑問は、なぜ政府は日本海側の原発の再稼働を推し進めようとするのか、という問題である。

実は上述の「国民の保護に関する基本指針」では、武力攻撃事態等における措置として「原子炉の運転停止」が明記されている。なぜなら、「武力攻撃原子力災害」が発生した場合には、近接地域が「放射性物質による被害を受けるおそれ」があるからである。とすれば、北朝鮮によるミサイル攻撃の脅威が切迫しているときに、なぜ政府はあえて日本海側の原発を稼働させようとするのであろうか。あるいは、表向きの脅威の喧伝とは全く逆に、実は政府は北朝鮮の脅威など無きに等しいと見做しているのであろうか。いずれにせよここには、防衛政策とエネルギー政策の根本的な矛盾、基本政策をめぐる支離滅裂さが露呈していると言わざるを得ない。

ちなみに、安全保障関係の政府委員を歴任してきた現JICA理事長の北岡伸一は最近の共同論文で、「北朝鮮にとって最も重要なのは、日本からの巨額の資金の獲得なので、対日攻撃の可能性は低い」と断じた。(北岡伸一・森聡「ミサイル防衛から反撃力へ」『中央公論』2021年4月号)とすれば、主に北朝鮮のミサイル攻撃を対象に計画されているイージスアショア代替艦の配備に1兆円を越える予算を計上するとは、文字通り国民をバカにした愚策の極みと言う以外にない。

沖縄の「戦場化」

それでは今日、このリアリティの問題をどのように捉えれば良いのであろうか。冒頭で述べたように、「台湾有事」が日本の存立危機事態と認定されて日本が台湾をめぐる戦争に加担していく、あるいは琉球列島が攻撃対象となり沖縄が再び戦場と化すといった想定の方が、北朝鮮によるミサイル攻撃よりも、はるかにリアリティがあると世論は受け止めるであろう。

もちろん米中両国の政治指導者たちは、いざ戦争となった場合のリスクは想像を越えるものがあり、現実には戦争に発展するような軍事的対立のエスカレーションには、きわめて慎重である。現にオースティン米国防長官も、「敵対国とも話せるようにしておく必要がある」と、米中の軍当局間における対話ルートの確保に努めている。しかし、超党派の支持を得るための「専制主義との戦い」とか、あるいは党内を引き締めるための「米国覇権との戦い」といった国内向けの対決スローガンが内外情勢を刺激し、軍事や軍需の利権に関わる諸勢力や「愛国的」なメディア、軍事アナリスト、あるいは対決の最前線に位置する関係者などから発せられる強硬論が「軍事の論理」とあいまって勢いを増し、事態を制御できないといった深刻極まりない情勢に陥いる可能性も排除できない。仮に、こうした最悪シナリオが沖縄や本土に及ぼす影響を想定するならば、改めて国民保護法を位置づけ直すことが重要であろう。

たしかに2004年に同法が制定された当時は、「国民統合が加速される」「作戦の邪魔になるものを排除することが目的とされている」「国権の立場で考えられ私権が侵害される恐れがある」等々の問題点が指摘され、現代版の「国家総動員法」であるとの批判も展開された。もちろん、こうした批判は的を射たものであろうが、重要なことは、当時と今日では情勢が大きく異なっていることである。

例えば、沖縄の米軍基地はベトナム戦争は言うまでもなく、2000年代に入るとアフガンやイラクなど米国の侵略戦争の拠点となってきた。しかし今では、米中対決の最前線に位置し、嘉手納基地さえ目標に据えられるように、外からの攻撃の対象に挙げられる事態となってきた。つまり、沖縄の米軍基地の有り様は、今や歴史的に大きな転換を画しつつあり、これに伴い、沖縄の「戦場化」がリアリティをもって語られる状況に立ち至ったのである。そこで国民保護法を捉え直すならば、同法では、武力攻撃事態等において「国民の保護のための措置を的確かつ迅速に支援」するなど、国民を保護するために国は「万全の態勢を整備する責務を有する」と謳われていることに着目すべきであろう。

この記事の執筆者