沖縄の「戦場化」と国民保護法

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脅威論の陥穽

 仮に中国の脅威が差し迫っていると認識されているのであれば、関係当局は「着上陸侵攻に伴う避難」について具体的な対応策を策定し、島外、県外、島内の避難訓練を実施し、島民保護、県民保護、国民保護の体制を早急に構築すべきである。こうした対応策を何らとることなく、単に中国の脅威を煽り軍事力の強化のみに傾注するならば、それは何らかの政治的意図に基づいたものであり真に脅威を認識したものではない、と断ぜざるを得ない。

 ちなみに、自民党の外交部会は5月下旬に、「台湾有事」に際しての在留邦人の救出や保護について具体的な対応策を政府に求める提言案をまとめた。中国が弾道ミサイルを撃ち込むなかで、オスプレイや輸送機C2の派遣、あるいは陸上自衛隊の特殊作戦群(特殊部隊)の投入も検討されていると言う。

 しかし、多くの軍事アナリストが指摘するように、仮に「台湾有事」が発生すれば、それに伴って、あるいはそれに先行して、先島諸島や沖縄本島への攻撃・侵攻が行われることは間違いない。そうであれば、なぜ島外避難、県外避難、あるいは島内避難に備えた本格的な避難訓練や避難体制の構築に向かわないのであろうか。島内避難の場合に、いかに「軍民分離の原則」を徹底させて文民保護を確保するか、なぜ具体的な対応策を策定しないのであろうか。

それはおそらく、そうした対応策に乗り出せば島民や県民や国民が事態の深刻さを改めて認識し、生き残るために逆に、軍拡競争ではなく政治的・外交的な対策を強く求めることになるからであろう。このままいけば、沖縄戦の悲劇が再現されると、事の本質を認識するに至るからであろう。勇ましい軍事強硬論が真の意味の「国民保護」を蔑ろにする典型例である。

沖縄戦が問うもの

いずれにせよ、今や日本の安全保障政策は根本的な転換に迫られていると言えよう。かつてであれば、米国の世界戦略にいかに「貢献」できるかを考えておれば良かった。しかし、米中対立が覇権闘争の様相を呈し東アジアが軍事対決の舞台に浮上するなかで、日本はその最前線に位置することとなり、沖縄や本土さえも「戦場」となる可能性を排除できない事態となってきた。そうであれば、「国民保護」は安全保障政策の根幹に据えられねばならない重要課題である。

 ところが、2013年12月に第二次安倍政権のもとで策定された安全保障に関する最高位の政策文書「国家安全保障戦略」では、「国民保護」の観点は事実上完全に欠落している。言葉として触れられているのは、「核兵器の脅威に対しては、・・・弾道ミサイル防衛や国民保護を含む我が国自身の取組により適切に対応する」という一カ所だけであり、いかに「国民保護」の体制を確立していくかという問題意識さえ読み取ることができない。今日の切迫した情勢に照らすならば、この国家安全保障戦略は、根本から組み替えられねばならない。

 ちなみに、2012年に自民党が発表した改憲草案における緊急事態条項を見ても、国民保護法で定められた「国民の生命、身体及び財産」を守ることが「国の責務であり使命である」という核心が抜け落ちたままで、ひたすら権力の集中だけが強調されている。今や、国民の生存と生活を守り抜く国民保護の体制作りを放置したままで軍事力強化にのみ突き進むことは、安全保障戦略の前提を欠落させたものと結論せざるを得ない。

 この国民保護という根源的な課題が安全保障戦略に具体化されることがなければ、かの沖縄戦の悲惨な事態が繰り返されかねない。沖縄戦の国家賠償訴訟で原告が訴えたことは、沖縄を「要塞化」する一方で、国は戦争となると「国民を保護する義務」を怠り、戦闘で住民に多大の損害を与えながら誰も責任を取ろうとしないという、「国民保護違反の不法行為責任」であった。まさに、沖縄戦の悲惨な歴史は、今日の安全保障政策の本質的な欠落を鋭く問い詰めているのである。

パラダイムの転換を

ここで改めて問われるべき根本の問題は、そもそも国民保護法が発動されるような事態を招かないために何をなすべきか、ということであろう。この点で取り上げるべき格好のテーマが、2015年の国連サミットで採択されたSDGs(持続可能な開発目標)である。このSDGsについては、「誰も反対できない目標が掲げられている」ことから、いわば「あがめ奉る」という形で官民を挙げて取り組みが展開され、今や「カラーホイール」のSDGsバッジを胸元に付けることはエリート達のステータスシンボルと化している。

もちろん掲げられている目標を追求すること自体はきわめて積極的な意義を有していることは間違いないが、「SDGs狂想曲」が奏でられる事態となれば、改めて問題の本質を問わねばならない。実は2018年にグテーレス国連事務総長は「軍縮アジェンダ」を打ち出し、大量破壊兵器を対象とした「人類を救う軍縮」、破棄力を増した通常兵器と膨大な兵器輸出を対象とした「生命を救う軍縮」、さらにAI兵器やサイバー攻撃を対象にすえた「将来世代のための軍縮」という、国連としての画期的な軍縮提案を行った。

 制約なき軍拡競争の展開に対峙して提起されたこの「軍縮アジェンダ」で改めて焦点が当てられているのがSDGsの課題であって、このSDGsを推し進めていくためには「軍縮という目標を実現していくことが不可欠」と強調されているのである。つまり、国際的に軍縮に向けて乗り出していくこととSDGsは、いわば“ワンセット”として位置づけられている。考えてみれば当然のことであろう。天文学的な巨費が軍事に投入され続けている状態でSDGsの目標が実現されるなど夢物語である。ちなみに、ストックホルム国際平和研究所によれば、2020年度の世界の軍事支出は前年費2・6%増の1兆9810億ドル(約214兆円)と過去最高額を記録した。

 SDGsの推進があたかも国家目標のように位置づけられるのであれば、同時に「軍縮アジェンダ」への本格的な取り組みも国家目標に据えられねばならない。際限なき軍拡競争を前に、軍縮を掲げないSDGsは“欺瞞”と言う以外にない。緊張が激化し「有事」が叫ばれる情勢であればあるほど、逆に軍事力強化ではなく,東アジアの「軍縮」に向けて日本は具体的な提案を行い、その実現に乗り出すべきである。これこそが、SDGsを推進するばかりではなく、何よりも真の意味で「国民保護」の使命を果たす道筋である。沖縄や本土さえ「戦場」と化すことが想定されるような情勢において、今こそ、脅威があるから軍拡に進むのではなく「軍拡こそが脅威なのだ」という、歴史的なパラダイム転換が求められているのである。

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