「文明国ナショナリズム」の闇―言論の画一化に呑み込まれないために

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パターナリズムの刃

この原稿では、「文明国ナショナリズム」の問題を、国家レベルのマクロな視点で考えてきた。しかし、同様の問題は個人レベルでも再生産され得ることは意識しておきたい。

沖縄との「連帯」を自称する所謂「良心的左翼」のヤマトンチュたちが、ウチナーンチュの方々にパターナリズムの刃を向け、同化の強制や自己決定権の抑圧を犯してしまう危険性(詳細は「ナイチャーは嘘をつく」論争についての記事を参照)については、重々自覚的でなければならない。

「香港・ミャンマーの方々が、日本の市民の理解・支援を期待している」といった報道も少なくなく、「日本人である私は、『野蛮国』に抑圧された外国の民衆の保護者だ」とつけあがる機会も増えているからこそ、「日本はそれほど立派な国か?」「日本の蛮行に自分も与していないか?」と省察・自己批判することを怠りたくない。現在の中国政府が非民主的だと言うのなら、日本政府だって同じくらい非民主的だと思う。

この先辺野古新基地建設反対運動を続ける上で、新基地建設への流れを容認する沖縄の首長の政治責任を問わねばならない時も出てくるかも知れない。本部塩川港のベルトコンベア問題や、美謝川の水路切り替え工事問題については、そんな言説も目立つ。

しかし、ヤマトンチュが「文明国ナショナリズム」を個人レベルで内面化し、「新基地建設に反対する自分は正義だ」「新基地建設に与する人物は無条件に批判して良い」と思い込むと、根本悪は辺野古新基地建設を強行する国にあること、また自分はそうした国の構造を支える加害当事者であることに無批判になってしまう。

国が一部のウチナーンチュの方々に新基地建設への協力を「強いている」という事実を忘れたヤマトンチュが、そうしたウチナーンチュの方々への批判に安住すれば、国による沖縄分断政策に与することになってしまう。それこそ、沖縄との連帯を阻害する行為だ。

「現在は戦前と似ている」との声がよく聞かれるようになった。その際想起されている「戦」は、十五年戦争だけだろうか? 特に6月は、私も沖縄戦に意識を集中させがちになる時期だが、日本の戦争体験は十五年戦争だけではないし、沖縄の戦争体験は沖縄戦だけではない。

勿論、十五年戦争中だって、「鬼畜米英からアジアを解放する大東亜共栄圏の指導者・日本」という「文明国ナショナリズム」はあった。しかし、十五年戦争中の「文明国ナショナリズム」は、軍事化した政治権力の側から押しつけられたものであった。

それとは対照的に、新聞と民衆とが共犯関係に陥りながら、自ら「文明国ナショナリズム」に溺れていったのが、日露戦争時の特徴だ。日露戦争時と現在とを比較することで、一定の言論の自由が確保された中で発揮される「文明国ナショナリズム」の恐ろしさに焦点を当てられたと思う。

重要土地調査規制法案成立が刻一刻と迫り、「戦時」が目の前まで来てしまっている今こそ、戦争体験継承に多様な時間軸・比較軸を持たせることが有益なのではないだろうか。

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