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中国脅威論者の論理

一方で、認知面での分断の根底にあるイデオロギー的問題にも注意を払わねばならない。前回の記事でも書いたが、現在「中国脅威論」と、それに付随する「文明国ナショナリズム」が左右両陣営の共通意識になりがちな言論空間が形成されている。安易な「中国脅威論」に流される人を少しでも減らすべく、「文明国ナショナリズム」に与する恐ろしさを伝え続ける努力も不可欠だ。

「中国脅威論」の強硬な主唱者である自衛隊幹部たちはどのような考えなのか。「敵情視察」するため、『自衛隊最高幹部が語る令和の国防』(新潮新書)を読んでみた。読後明らかになったことは、「自衛隊最高幹部」らの思想が「対中国の新冷戦」との世界観に凝り固まっていること、そして中国に対抗するためには立憲主義・民主主義の原則を根本から崩すことを厭わないことである。

言葉の上では、冷戦期・55年体制のマインドセットを克服できていない日本社会を批判している彼らだが、実際は仮想敵をソ連から中国に乗り換えたに過ぎない。日本は自由主義・民主主義を実践する正義の国であり、反対にその理念を共有しない中国は野蛮な絶対悪である。その悪を成敗するためには、アメリカを中心とする強固な軍事同盟を持つべきだ。彼らの主張は、そんな自己陶酔的な二元論に終始している。

要は、彼らの世界観は「常に戦時状態」なのである。政治と軍事とを連続させることを終始主張し、その世界観を広めるべく陰謀論を振りまいている(同書では「敵」「奇襲」「工作員」といった言葉が幾度もなく用いられている)。

国民のことを軍事国家の歯車としてしか見ておらず、民間企業の技術も、研究者の学知も、全て軍事利用すべきだと主張している(例えば、日本学術会議の軍事研究拒否の姿勢を非難する有様である)。

彼らの議論には、そうした陰謀論に基づくいたずらな軍事化こそが「敵」を作り出しているという事実への反省も、基本的人権や戦争放棄を絶対不可侵の金科玉条とせねばならないという意識もない。日本が絶対正義の側にいるという「文明国ナショナリズム」を疑わないから、明治維新以降侵略戦争を繰り返し、膨大な犠牲を生んだ歴史をそのまま繰り返そうとしているのである。

自衛隊という組織の中で教育され、出世を重ねてきた彼らだから、軍中心の世界観になっても仕方がないのかも知れない。戦争絶対放棄・憲法絶対遵守から議論を組み立てる私たちとは、正反対の世界観が貫徹されているし、これは解決不可能はイデオロギー対立なのかも知れない。

ちなみに、平櫛孝『大本営報道部』(光人社NF文庫)には、戦前の陸軍士官学校は政治の教育がほぼ皆無で、「一般の世界から遠く隔絶された別世界」(pp.18-19)であったと書かれていた。さすがに現在の自衛隊が、当時の日本軍と全く同じ教育を行っているとは思えないが、軍事中心に制度を作れば、これほど極端な教育すら出来上がってしまうことは念頭に入れておくべきだと思う。

ここまで強固に「中国脅威論」を信じ込んでいる人をいきなり説得するのは不可能であろう。むしろ、私たちがすべきは、安易に彼らの振りまく脅威論・陰謀論に流される人を減らすための取り組みである。

その為には、彼らの論理に与することが、日本が戦争からの教訓を土台に76年間なんとか守ってきた立憲主義・民主主義・平和主義を根本から否定する「イデオロギー的転換」を意味するのだ、と伝え続けるしかない。

『自衛隊最高幹部が語る令和の国防』の議論では、政治と軍事との接近を断固拒否するという戦後のタブーを破った安倍元首相らが理想の指導者として扱われている。つまり、「戦前回帰」こそ、彼らの理想なのである。彼らは「自由と民主主義の守り人」を自認しているような口ぶりだが、一度その論理に与すれば、自由も民主主義も放棄せざるを得なくなる。

「戦争からの教訓を忘却し、基本的人権を軍事の犠牲にして良い」と本気で覚悟するなら、彼らの論理を受け入れても構わない。しかし、少しでも基本的人権・平和的生存権が保障された生活に愛着を感じるのであれば、彼らの論理は断固拒否すべきである。安易な脅威論の受容がどれほど自殺的な行為か、地道に伝える努力が不可欠だ。

では、どうすれば脅威論の怖さを広く伝えることが出来るだろうか?

一つの手段は、日本社会そのもののあり方を虚心に見つめることだと考える。脅威論の正当化に頻繁に用いられるのが「普通の国」論(「普通の国」なら軍を持つし、集団的自衛権も一定の私権の制限も許される、との主張)であるが、彼らが理想視する安倍・菅政権の政治運営がいかに「普通でない」かを指摘し続けるのが必要だ。

その際、中国などの「敵」との比較はさておいて、「まず自国内にどれほど矛盾があるのか?」という観点に議論を限定する必要がある。

十分な審議を尽くさず、深夜に採決を強行すること。世界自然遺産に登録された沖縄北部の森林において、米軍が薬莢などの廃棄物を放置するのを不問に付すこと。沖縄県民に銃口を向けるような米兵の訓練を許すこと。沖縄県民の民意に背いた辺野古新基地建設を強行すること。そんな現状に抗議する市民を、機動隊まで動員して弾圧すること。

沖縄で起こる問題を見れば、米軍基地を沖縄に一極集中させる日本社会が、沖縄県民の平和的生存権を侵害し、米軍による沖縄の領土侵犯と環境破壊を生んでいるという自己矛盾がはっきり見える。こんな日本は、自由でも民主的でもない。この問題については、中国などとの比較を持ち出さずして問いかけられるはずだ。

日本を真の「自由と民主主義」の実践者にしたければ、まず自国内部で変えられることがある。そんな訴えを続け、米中対立を基にした新冷戦の発想と、それを支える「文明国ナショナリズム」を解除することで、社会・国家としての独立を目指していくべきではないだろうか。

「中国脅威論」に流されている人々の中にも、自由と民主主義自体の価値は認めている人も少なくないはずだ。そこを「最小限の共通地盤」と捉えて議論を始めることで、中国脅威論者を過度に敵視・排除することなく、市民の分断を乗り越えていきたい。

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