排除する者とされる者―差別と嘲笑のまなざし

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大きな力が小さな声を覆い隠す現実。日本を「主」と考えることで沖縄は同化が前提の後進地域と位置付けられる。冒頭の実業家は「沖縄の人って文法通りしゃべれない」「きれいな日本語にならない人の方が多い」とも発言した。多くの日本人がいまだに、沖縄は近代化が遅れた辺境社会というレッテルと、「異質性」を鵜呑みにしていないか。その本質的構造を問うのが、『沖縄とセクシュアリティの社会学』の著者、玉城福子だ。

日本社会の中の沖縄と、沖縄社会の中の女性。抑圧の密度は対象が絞られるほど濃くなっていく。沖縄で性暴力が最初に注目されたのは、沖縄戦時の日本軍「慰安婦」の問題だという。

玉城村(現南城市)史に「本来国内駐屯の軍隊には慰安所はあり得ないはずであるが、『準外地』並みに扱われた沖縄は例外であった」との記述があった。「準外地」として扱われたからこそ、「慰安所」が設置された、との含意がある。玉城はこれを「日本人による沖縄人差別を間接的に指摘している」と読み解く。

沖縄で次に性暴力が着目されたのは1995年の米兵による少女暴行事件だ。抗議集会で「この問題を女性への暴力の問題に矮小化するな」「これは日米安保の問題なんだ」と声を張り上げる男性がいた。「女性への暴力よりも日米安保の方が重要」との当時の認識が露わになる。

玉城は住民の視点に立った沖縄戦の語りが、「慰安婦」を周縁化してきた面も指摘する。沖縄県平和祈念資料館の「慰安所」の解説文。「『慰安婦』の多くは朝鮮半島から強制的に送られた」と記述されている。那覇市内の遊郭の女性も慰安婦だったが、解説文には反映されていない。

「住民」というとき、誰がそこから排除されているのか。そのことへの十分な考慮がないまま絶対視されてきた「住民の視点」。軍隊と住民の視点は対立せず、どちらも家父長制の価値観に汚染されているとはいえないか。玉城が提示するのは植民地主義と性差別主義の不可分な関係性だ。

沖縄は地理的・文化的な要素に着目して語られることも多い。安里長従・志賀信夫共著『なぜ基地と貧困は沖縄に集中するのか?』は、社会構造上の問題が地域問題に矮小化され、沖縄の人びと自身の振る舞いやあり方にその原因が還元されてきた、と難じる。

自分が見たい「住民」像から逸脱した存在はときに不快に映る。差別や偏見は、抑圧している側が自身の内面と向き合わない限り解消されない。

多様性に神経をとがらせる社会の表層の一枚裏で、「異質な他者」を排除する手口は巧妙化している。各国の軍拡競争を支えているのも内向きの同調主義だ。世論が一つになったとき、戦争の準備は整う。日本は今、どのあたりか。

【本稿は2022年12月25日付毎日新聞記事を加筆転載しました】

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