ペリーは何を語ったのか~「元米国防長官・沖縄への旅」を読み解く【その2】

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第一次北朝鮮核危機が進行中の19944月、米国防長官ペリーは日本に降り立つ。

朝鮮半島有事となった際に、在日米軍基地を用いることについて、日本側から同意を得るためであった。これに対して、「基地使用にはイエス、しかし公の場で議論したくない」と述べた次期首相・羽田孜の思惑は・・・。

 

北朝鮮核危機に直面した細川・羽田政権

 

北朝鮮の核開発が表面化し、これを阻止しようとアメリカが武力行使も検討したのが第一次北朝鮮核危機(1993年~94年)である。この危機は、細川護煕、羽田孜という非自民連立政権とほぼ重なる形で進行した。

1955年の結党以来、政権与党の座を独占してきた自民党を引きずり降ろし、歴史的な政権交代を果たした細川護煕政権(1993年~94年)だが、それは「非自民・非共産」の7党8会派が、「政治改革」をほぼ唯一の一致点として連立を組んだ寄り合い所帯であった。

とりわけ外交・安全保障をめぐっては、議席数の上では最大与党である社会党から、湾岸戦争時に自衛隊による多国籍軍への後方支援を主張し、「普通の国」を唱えていた小沢一郎が率いる新生党までを含んでおり、不一致が顕著であった。

そこに勃発したのがこの第一次北朝鮮核危機である。有事に際して閣議決定が必要になった場合、社会党出身者を含めた閣僚全員の署名が果たして揃うのか、揃わない場合にはどのような対応をとるべきか、細川首相の悩みは尽きることがなかったようである(細川護煕『内訟録 ―細川護煕総理大臣日記』382頁)。

細川が政治資金疑惑を理由に退陣を表明すると、次期政権の枠組みをめぐって連立与党内では激しい駆け引きが展開されるが、それは進行中の北朝鮮核危機と密接に絡んだものとなった。

 

朝鮮半島有事対応で政界再編を

 

細川が199448月に辞意を表明した後、同じ非自民連立の枠組みで羽田政権が発足するまで3週間近くを要したが、難航した最大の理由の一つは、進行中の北朝鮮核危機への対応であった。

新生党の小沢は、元副総理の渡辺美智雄を次期首相に担ぐことで自民党を分断し、これと組んで次期政権を発足させることを画策したが、朝鮮半島有事に対応できる万全の体制というのが、そこでの「錦の御旗」であった。

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