結局、細川政権と同じく社会党も含めた連立によって羽田政権が発足するが、その直後に小沢が主導して、社会党を除く連立与党が統一会派を結成した。社会党の影響力を削ぐねらいは明らかである。これに猛反発した社会党は連立を離脱し、羽田政権は少数与党に転落、結果として二カ月あまりの短命に終わる。
これに対して羽田は、社会党を含めた連立枠組みの維持を志向していた。小沢やその側近が、北朝鮮情勢が切迫していることを強調したのに対し、羽田は「閣僚が表で言うと、国会審議がおかしくなってしまう。政局にしようとする連中もいるんだから」とたしなめ、「(アメリカの姿勢から戦争になるかもという印象を受けましたか、という質問に対し)あんまりそんなではなかった」と語っている(『日本経済新聞』2000年1月11日)。羽田は、首相として社会党の与党復帰を期待していた。
羽田首相が退陣すると、再び次期政権をめぐる連立組み替えをめぐって熾烈な駆け引きが展開され、結果として自民党が社会党委員長の村山富市を担ぐという荒業によって、自民、社会、新党さきがけ連立による村山政権が発足する。
このとき、北朝鮮核危機はカーター元米大統領が訪朝し、金日成国家主席と直談判することによって、急転直下、収束へと向かっていた。もしも危機が回避されず、緊張が続いていたならば、自社連立が成立していたかは微妙であろう。自民党幹事長などをつとめた山崎拓は、「カーター訪朝で核危機が回避されたので、自社さ政権の発足が可能になった」と回顧している。眼前の有事対応がひとまず棚上げされたことが、自社連立という「コペルニクス的転換」を可能にしたのである。
日本政治の隠れたテーマ
ペリーが不満を漏らした羽田の対応、すなわち、「基地使用にはイエスだが、それを公の場では議論したくない」という言葉の背後には、このような連立組み替えをめぐるせめぎ合いに、影響を及ぼしたくないという思惑があったのは間違いあるまい。しかし、それを「永田町のゴタゴタ」と矮小化して捉えるのは、適切ではなかろう。
この後も続く北朝鮮による核開発など、安全保障問題に対する万全の対応を旗頭に掲げた政界再編の動きは、「保保派」として、村山政権につづく橋本龍太郎政権下でも継続し、これに対抗する「自社さ連立派」との間で駆け引きが続くことになる。
政権交代と連立組み替え、そして自民党を除く諸政党の離合集散が繰り返された冷戦後の日本政治だが、「有事対応」は、その際の隠れた主要テーマであった。先日の希望の党の発足に際して、小池百合子代表が安保法制への賛否によっては加入希望者を「排除します」と語ったことに、この文脈を見てとることができよう(ちなみに小池は、第一次北朝鮮核危機の際には、日本新党の代議士として、細川首相の側近ともいうべき存在であった)。