聞こえなくても…
最も心に刺さった作文がある。タイトルは「聞けない耳 きけない口」だ。5年生の女子児童が書いた。
校舎すれすれに飛行機が飛んだ。みんなは、耳をおさえた。私にもその音が聞こえた。かすかではあるが、たしかに聞こえたのだ。これが音なのだ。とび上がるほどうれしかった。
身体的不自由な人と言うと、いろいろある。手足が不自由、目が不自由、耳や口が不自由。私はその中の耳や口が不自由である。でも、私はくじけていない。くじけても何もならんと思うからだ。
(以下略)
79年度の「そてつ」にこの文を書いた女性を探すのには最も苦労した。細い糸をたぐるようにしてようやくたどり着いたのは、義妹に当たる女性(41)だった。職場を訪ね、作文のコピーを見てもらうと、読み始めて間もなく、女性はハンカチを取り出し、目頭を押さえた。
「頑張り屋の姉らしさが出ていますね。今もこのままの人です」
そう言って仲介してくれた。
作文を書いた女性は43歳。3人の子どもをもつシングルマザーだった。沖縄県内のスーパーで商品の出し入れの仕事をしている。メールでのやり取りを経て、手話の上手な10歳の次女を伴って面談に応じてくれた。想像した通り、聡明(そう・めい)そうで活力に満ちた目が印象的な人だった。第二小時代の思い出について尋ねると、あふれ出るように語ってくれた。
校庭で友だちと鬼ごっこをしているとき、みんなが急にしゃがみこんだり、耳をふさいだりするので、米軍機が上空を通過するのが分かった、という。米軍機の着陸する場面が当たり前のように教室の窓から見えたことや、米軍機の騒音のため何度も授業が中断したことも…そして、これらが今も変わらないことに女性は心を痛めていた。
第二小へ通ううち、当時の知念校長のはからいで学校給食を食べさせてもらったことがある。そのとき、校内放送でクラシック音楽が流れてきた。第二小の昼食時間のBGMはクラシックと決まっているそうだ。
「いい音楽を子どもたちの耳に触れさせ、心にゆとりをもたせたい」という知念校長の発案だった。いかに劣悪な環境に置かれようと、子どもたちの心の安寧に最善を尽くす――。知念校長の教育者としての覚悟と誇り、そして「無言の抵抗」が込められているように感じられた。
当たり前のことだが、地元の人たちにとって「基地被害」は、96年の日米の普天間返還合意後に始まった問題ではない。96年というのは、全国メディアが「普天間問題」というかたちで「ニュース」として発信し始めた年であって、地元住民には単なる通過点にすぎない。そして今この瞬間も、子どもたちが駆け回る校庭のすぐ真上を米軍機が飛び交っている。そんな目を覆いたくなる現実を痛感する取材となった。
【本稿はAERAdot.( https://dot.asahi.com/)掲載記事を転載しました】
<おことわり…沖縄タイムス連載時や、『私たちの教室からは米軍基地が見えます』(ボーダーインク刊)に収容した際はすべて実名で紹介しましたが、今回は当事者にネット掲載の許可をあらためて得る時間がなかったため匿名としました>