「無言の抵抗」はいつまで続くのか―普天間第二小への米軍ヘリ部品落下事故―

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12月13日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に隣接する市立普天間第二小学校のグラウンドに、米軍大型輸送ヘリの窓ガラスとみられる部品が落下、現場にいた男子児童1人が軽傷を負った。

筆者は「沖縄タイムス」に記者として在職していた2011年、取材で第二小に通い、「基地の街の子~文集『そてつ』より」という連載記事を執筆した<のちに『私たちの教室からは米軍基地が見えます』(ボーダーインク)として上梓>。

第二小は、沖縄の本土復帰の翌年に当たる1973年度から毎年度、在校生の文集「そてつ」を刊行している。タイトルには逆境を乗り越え、岩をも貫いて生きる蘇鉄のようにたくましく育ってもらいたい、との願いが込められている。

興味をもった筆者は、当時の知念春美校長の許可を得て、数週間かけて過去の「そてつ」を全部読ませてもらった。子どもたちの日常生活をリアルに切り取った、印象深い言葉が並んでいた。予想した通り、毎年必ず「普天間基地」をテーマに取り上げる児童がいた。

「普天間基地」を作文の題材に取り上げた小学生の詩や作文の紹介にとどまらず、「基地の街」で育った子たちが大人になった今、「動かぬ基地」に何を思うのか、じっくり腰を据えて聞きたいと思った。そんな思いから、10編の作文や詩の作者を一軒一軒訪ね歩いて、インタビューしたのが同書だ。当時の取材から印象深い言葉や出来事を紹介したい(年齢、肩書などは取材当時)。

黒板の「正」の字に込めた思い

 

82年度の「そてつ」に、「普天間飛行場」というタイトルの作文を書いた小学5年の女子児童がいた。冒頭だけ紹介する。

 

「ビューン

ゴゴゴゴゴゴー。」

また、ヘリコプターだ。あっ今私たちの小学校の上をとおった。

「うるさあーい。」

とも言うこともできず、ただ先生の話が一時ストップするだけだ。

そりゃ戦争を始めた日本が悪いけれど、罪のない私たち子どもまでがぎせいになることはないと思います。

四年の時

「うるさあーい、しずかにしろー。」

と、どなったこともあります。もやもやしていた心がすきーとして、なぜだが、むしょうにうれしくなってくるような気分だったのです。

(以下略)

 

この作文を書いた、少し勝ち気そうな児童は、約30年後も宜野湾市内に暮らし、中学教諭になっていた。40歳で2児の母親でもある女性は、学校でも自宅でも上空に米軍ヘリが旋回し、常に危険にさらされる生活だったと振り返り、こう言った。

「低空飛行は怖かった。中にいる軍人の顔も見える。登下校のときも落ちるんじゃないか、落ちたらどこへ逃げようかという意識が、いつも頭の中をめぐっていました」

第二小時代の授業風景で女性が記憶していたのは、黒板の片隅に書かれた「正」の字だ。当時、教室にはエアコンが未設置で、冬場をのぞき、窓はたいてい開け放たれていた。このため、ダイレクトに米軍機の騒音にさらされ、たびたび授業が中断した。その都度、黒板の端っこに「正」の字で回数を記す担任教諭がいたという。それを見れば、1日の授業で何回中断したかが一目瞭然となった。

普段は声高に「基地被害」を唱えることもない教諭の「無言の抗議」であることを、児童の多くは気付かなかった。だが女性はある日、「何これ?」と教諭に尋ねた。そのとき担任教諭はこう諭したという。

「この数が多ければ多いほど、あなたたちは、よその地域の人と比べてマイナスが大きい、ということになるんだよ」

女性はこのとき初めて、「自分たちにはマイナスのものがあるんだな」と自覚したと振り返った。

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