密約は消えていなかった?
そうであれば、本稿が扱っている第一次北朝鮮核危機の際には、朝鮮半島有事をめぐる密約はとうの昔になくなっているはずであり、ペリーの発言に密約の影を探ろうとするのは、見当違いにも見えるであろう。
ところが、ことはそう単純でもない。沖縄返還に際して佐藤首相が発した共同声明や演説によっても、密約が消えたわけではないと指摘されているのである。
筑波大学名誉教授の波多野澄雄は、前述の密約解明のための有識者委員会のメンバーでもあるが、沖縄返還交渉の際に「朝鮮議事録」が失効したとは見ていない。文書を検討してみれば、米軍部などは佐藤による共同声明や演説の組み合わせでは、保証が不十分だとして納得しておらず、最後には日米の外交当局間で、これ以上この問題には触れないことで、場を収めた様子がうかがわれる。
1974年には在韓国連軍司令部の解体問題に関連して、米国家安全保障会議で朝鮮議事録の「延長」を日本側に求めようとしたが、国務省は日本側の同意が得られないだろうとして反対し、未決のままとなった。つまり、米政府としては、朝鮮議事録が明確に失効したとは受け止めていなかったと見られる。
この立場に立てば、「朝鮮議事録」は1997年の日米防衛協力のための指針(通称、「ガイドライン」)、1999年の周辺事態法などによって、ようやく過去のものになったということになる(波多野澄雄『歴史としての日米安保条約』、岩波書店、2010年、222-229頁、272-274頁)。ガイドラインや周辺事態法などによって「周辺事態」という概念が導入され、「朝鮮議事録」のような在日米軍の出撃を認めるか否かという従来の次元から、日米で共同対処するという色彩に問題は大きく変貌するのである。
だが、第一次北朝鮮核危機の最中、1994年4月のペリー訪日の時点では、事態はそこまで進んでいたわけではない。そうなると、朝鮮半島有事を事前協議の例外とするという密約は、沖縄返還交渉の際に失効したのか、それとも冷戦後の1990年代後半まで存続していたと見るのか、1994年の事態をめぐるペリーの回顧は、それを見極める上でも、実に興味深い発言だということになる。