日米安保・密約・沖縄
そのような観点で、改めて回顧録に記されたペリーの発言を読み返してみよう。「もちろん、日米安全保障条約第六条では、朝鮮半島などでの『周辺有事』の際に我々が日本の米軍施設を使用することを認めている」「ただ、実際にそうなった場合、やはり時の日本政府にきちんとその旨を説明し、全面的な理解を得たうえで、支持してもらわなくてはならない」。
やはりこの記述だけでは、ペリーが、密約が有効であるがゆえに事前協議を不要だと認識し、しかしその上で、政治的考慮から日本側に「イエス、ノー」の言う場を設けるのが適切だと判断したのか。あるいは、そうとも言い切れないのか。問題の焦点を読み取ることは難しいように思われる。
ただこの発言から言えることは、繰り返しにはなるが、密約というものの有効性ということであろう。振り返ってみれば日米安保をめぐる密約とされるものは、その多くが沖縄に関係するものであった。その代表的なものは、1972年の沖縄返還に際して、「核抜き、本土並み」が実現したものの、いざというときには米軍による沖縄への核兵器の再持ち込みが認められていたという密約であろう。
この密約をめぐっては、佐藤首相の密使として、京都産業大学教授であった若泉敬が水面下で米側と折衝し、その全容を『他策ナカリシヲ信ゼムと欲ス』(文芸春秋、1994年)に書き記し、その後、慙愧の念もあって自死を遂げたことでも知られる。
一方で、外務省は同様の取り決めをなんとか「オモテ」の日米間の文書に書き込もうと注力し、そして佐藤首相は若泉が米側と折衝して作り上げた密約の文書にニクソン大統領とともに署名したものの、帰国後には自宅に保管したままであった(この文書は近年になって佐藤邸の机の中から見つかったが、公文書ではないとして、外務省はその引き取りを拒んだ)。
この佐藤=ニクソンによる密約の効力については、さまざまな研究が検討を行っているが、実際にそれが機能するかといえば、おそらくは疑問であろう。「実際のところアメリカ政府が、(日本)外務省が関知していない(佐藤=ニクソンによる)「合意議事録」を根拠として核兵器の(沖縄への)持ち込みといった重大な要請を行うことは、日米安保条約をめぐる合意と解釈の積み重ねを反故にする話であり、同盟国間の信頼関係を損ねる重大な行為となりかねない」とみるのが常識的であろう(中島琢磨『沖縄返還と日米安保体制』有斐閣、2012年、277頁)。