名護市長選挙の20年

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レアケース

 

第二に、基地移設反対派が勝利するのは、レア・ケースだということだ。移設反対派は、1997年の住民投票で勝利したものの、その後名護市長選挙では、三連敗した。稲嶺進氏の二度の勝利も特殊な環境下で実現したものだった。
2010年の名護市長選挙は、前年2009年に「最低でも県外」への普天間飛行場の移設を唱える民主党の鳩山由紀夫政権が発足し、沖縄で期待が高まる中で行われた。こうした中、明確に基地移設反対を唱える稲嶺氏は、2006年にV字型滑走路の代替施設受け入れを容認した島袋氏に勝利する。2014年の選挙は、前年2013年末に仲井真弘多沖縄県知事が、辺野古移設のための埋め立てを承認した直後に行われた。仲井真知事は、普天間県外移設を公約にして当選したにもかかわらず、埋め立てを承認し、しかもその際、振興予算を獲得したことについて「よい正月が迎えられる」などと発言した。仲井真知事への怒りが沖縄県全体に怒りが高まる中で、稲嶺氏は勝利したのである。しかし今回の名護市長選挙では、稲嶺氏に対し、特別な「追い風」は吹かなかった。

第三に、経済面・生活面の争点の重要性である。宮城康博氏によれば、「社会経済的な不安が、基地建設の是非という政策に関する判断を上回り、投票行動を決定している」(宮城康博『沖縄ラプソディー地方自治の本旨を求めて』)。名護市は、沖縄県北部、いわゆる「山原(やんばる)」の中心都市だが、那覇を中心とした南部から経済発展で取り残されているという不安を感じてきた。もっとも名護市では、1973年に作成された「第一次名護市総合計画」において、経済格差にとらわれるのではなく、地域住民の安全や豊かな自然に注目し、自立した豊かな生活を建設しようという「逆格差論」が提示された。しかし、1980年代中旬には、革新市政から保守市政へ変わり、リゾート開発が進められた。
これまでの名護市長選挙で、岸本建男、島袋吉和といった移設容認派の候補者は、そろって政府による振興策を通した地域経済活性化を強調してきた。これに対し、2010年の選挙では、これまでの政府による振興策にもかかわらず、経済活性化が目立った効果を挙げておらず、多くの市民が経済や暮らしに不安を感じる中で、基地に頼らないまちづくりを掲げる稲嶺氏が当選したのである(『沖縄タイムス』2010年1月25日)。
しかし今回の選挙では、渡具知氏は、観光を中心に好調に発展する沖縄の中で名護市が「取り残されている」として、地元の「閉塞感」を強調した。その上で渡具知氏は、日本政府からの援助を得て地元経済を活性化させることをアピールし、支持を得たのである。

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