「普天間はもたない」
転機が訪れたのは1995年9月、三人の米兵が沖縄で一人の小学生の少女を暴行した事件が起きた後だ。大田昌秀・沖縄県知事が、米軍が沖縄で基地を使用するのに必要な土地の代理署名を拒否すると、沖縄の基地問題は日米両政府の喫緊の政治課題となる。
1995年11月、日米両政府は、沖縄の米軍基地の「整理・統合・縮小」について話し合う、「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」を設立した。SACOの当初の議題に、普天間飛行場の返還は入っていなかった。
だが、SACO始動前から普天間返還をみすえていたのが、アーミテージである。当時、「アーミテージ・アソシエイツ」の代表だった彼は、共和党員でありながら、民主党であるクリントン政権のペリー国防長官のアドバイザーとして、国防総省を出入りしていた。
船橋洋一『同盟漂流』(岩波現代文庫、2006年)によれば、1995年10月、ペリーに意見を求められたアーミテージは、「重荷を背負ってきた沖縄の人々に誠意を示す第一歩として普天間を返還し、海兵隊の機能を嘉手納に統合してはどうか」と説いたという。1996年2月に、橋本龍太郎首相がクリントン大統領に普天間返還を切り出すよりも、かなり早い時期のことだ。
アーミテージの見解は、当時の国防総省史料からも確認できる。アーミテージは、カート・キャンベル国防次官補代理にも、「普天間飛行場は、政治的にもう長くはもたない」と指摘したという。
アーミテージとペリーの違い
だが、民間人であるがゆえに、思いきった発想が可能だったアーミテージとは対照的に、ペリーには国防長官としての重圧がのしかかっていた。ペリーの当時の最優先課題は、1993年に発覚した北朝鮮の核開発への対応だった。
北朝鮮の核開発を阻止するために、軍事オプションも選択肢に入れていたペリーは、1994年から朝鮮有事の際に米軍が実行する作戦計画を徹底的に見直していた。その結果、普天間飛行場は朝鮮有事において、次のような重要な役割を担うとされた。
①攻撃の主力となる沖縄県嘉手納基地の米空軍への兵站・補給
②朝鮮半島に出動する国連軍の受け入れ
③本国からの増援を受けた在沖海兵隊の作戦拠点
したがって、1988年に西銘が要望した普天間飛行場の無条件返還は、ペリーにとってはありえない選択肢だった。
当時の史料によれば、国防総省はSACOでは、普天間飛行場に駐留する空中給油機KC130の山口県岩国飛行場への移転、普天間への夜間着陸の制限、西普天間住宅地区の返還などをもって、沖縄側の要望に応える方針だった。ところが、1996年2月、橋本首相がまさかの普天間返還をクリントン大統領に伝えた。
そこで、国防総省は、普天間飛行場の返還(return)ではなく移設(relocation)を検討し始める。アーミテージがすすめた嘉手納統合案ではなく、朝鮮有事の際には嘉手納と普天間の二つの基地を最大限使えるよう、「嘉手納基地に隣接した」場所への代替施設建設を条件とした普天間移設、という案を作り上げたのだ。
こうして、かつての西銘の想いをかなえようとしたアーミテージの助言は、北朝鮮の核開発問題を最優先課題とするペリー国防長官によって、「普天間返還」とは羊頭狗肉の「普天間移設」へと変わってしまったのである。
※詳細は、山本章子「米国の普天間移設の意図と失敗」『沖縄法政研究』第19号(2017年2月)を参照。